2010-09-01から1ヶ月間の記事一覧
本作は、一貫して笑みを絶やさない紀子の明るさが、三世代家族の物語を繋ぎ止め、世代の異なる者たちが抱懐する多様な思いから生まれた、ある種の硬質感を溶かすような、相当に有効な求心力の役割を担っていたことは間違いない。 ところが、人生に対してポジ…
この映像は、杣売である一人の中年男の心理分析が中枢となる物語であると、私は考えている。この映画の作品的価値も、映像の作り手の主題性も含めて、本作は杣売の心情分析なしには成立しない人間ドラマであると言っていい。 全て杣売の疑問から始まり、杣売…
映像の中で、最も重要なシーンの中の一つに、死去したはずのアグネスが葬儀を前にして蘇生するという描写があった。 この描写は、紛れもなく、「イエスの復活」をなぞったものだ。 「私は死んだわ。なのに眠れない。皆が心配で。くたびれた。誰か、助けて」 …
やがて朝が来た。 バディの視界に入り込んでいた褐色の風景は、一転、グリーンの山肌に変わっていた。 「もういいよ。聞こえるか?もう休んでもいいと、皆に伝えてくれ。撮影は終わったから」 郷愁を誘うBGMに乗って、本作の作り手であるアッバス・キアロ…
この映画の決定的な瑕疵は、最後まで「善悪二元論」によって押し切ってしまったことだ。 それを象徴するシーンがある。 主人公のアンディが刑務所の全ての囚人たちに向かって、大音響のボリュームで「歌劇 フィガロの結婚・二重唱・そよ風に寄せる」を流した…
「主張する者」の意志を捨て、「糾弾する者」と化したかのように、蝶衣は菊仙の方に向かって進み出で、攻撃の矛先を広げていく。 「この女に出会ったのが、お前の運のつき。それで、全てが終わった!今は、天罰がお前に下ったのだ・・・僕らは自ら、この運命に…
底を抜けていくほどの何かを必要としたとき、まさに最適のタイミングで、「銃後の手習い」としての「落語教室」が立ち上げられたのである。 しかし、「芸」の「質」の内的向上を求める男の精神世界の振れ方と、軌を一にするように立ち上げられた「落語教室…
相変わらず辛辣なドーミエの忠告は、その瞬間、力のない何かになり、グイドの内側に大きな変容を齎(もたら)していった。 「急に幸せな気分になり、力が漲(みなぎ)る。許してくれ。僕は分っていなかった。君を受け入れ愛するのは、何て単純なんだ。ルイ…
男の感情だけが、睦みの時間の中で置き去りにされた。 「なぜだ?」と男。 「夫のせいよ」と女。 「もう死んだ」と男。 首を横に振る女。 「汽車で帰るわ」 その一言を残して、女は去って行った。 このとき、BGMで流されるメロディの、「心は闇に閉ざされ…
本作への私の批評の主眼には、二つある。 その一つ。 本作においても描かれた、「現代人の絶望と孤独」という作り手の問題意識は、サスペンス性への彩りを添えた不条理劇という物語設定の中で、いよいよ深まるばかりの「愛の不毛」という主題が、ここでは「…
安楽死を求めるマギーの気持ちが充分に理解できていても、それを遂行することに躊躇するフランキーは、思い余って、馴染みの神父に相談した。 これまでにない真剣なフランキーの相談に対して、神父の反応はカトリックの倫理観を代弁するもの以外ではなかった…
その自殺既遂者の遺体を前にして、大悟は今や、自立した納棺師の如く、心に充分の余裕を持って、「女性の化粧」を施していくのだ。 自立した納棺師が、チェリストの延長としての芸術家であるという誇るべき時間を、妻との縁を切ってまで拘った男が、堂々と、…
「誰も知らない」という映画で描かれた、苛烈な小宇宙の物語の最大の問題点は、4人の子供たちを半ば遺棄した馬鹿親たちの絶対責任を、他の何ものかに責任を転嫁して稀薄化したことである。 ラストシーンに於ける、「子供共和国」への出撃という無意味な感…
「冬の旅」も又、全く音楽を用いない客観描写で、突き放すようにして映像を記録する。 女を断片的に知る者たちの主観的証言を束ねることで、このような〈生〉の様態を拒絶する社会の圧倒的な世俗性を炙り出していくのである。この埋め難い距離を淡々と映し出…
結局、ソフィーの息子は、絶滅収容所からの生還を果たさなかった。 このことで彼女の残りの人生の行方は、ほぼ定まったと言えるだろう。 それ以上ない心的外傷を負った、一人の女が選択し得る人生は、極めて限定的だったと言うしかないのである。 彼女はネイ…
映像が突然暗転する、この重苦しい一日の非日常的な流れが、翌日の家族の行動の文脈を決定づけたのである。幼いモンチョの自我も、この流れの中に翻弄されていったのだ。 そこに、石を投げる少年がいる。駆けていく少年がいる。 その眼差しの先に、自分を愛…
ケーンは孤立した。 決定的状況の中で、ケーンは孤立した。決定的状況だからこそ孤立したのである。 町を彷徨(さまよ)うケーンの焦燥感が、映像に浮かび上がってくる。 ケーンの表情は、決定的状況の深まりの中でいよいよ険しくなり、その不安の旋律があか…
関係の劇的な転化によって、二人は追う者と追われる者の関係を開いていく。そして追う者は追われる者を捕捉し、その首を絞めにかかる。 しかしより腕力に勝る男の圧力は、その男の自我の臨界辺りで決定的に中断された。 少年の首を絞める男の脳裏に、その少…
映像それ自身のラストシーン。 恐らく、忌まわしい事件を機に、その職を辞したと想像されるパク元刑事が、偶(たま)さか通り過ぎた震源地となった村で、営業車を降りた。彼はその足で、水田脇の水路を覗く。それこそ事件の発生点となった場所である。 その…
女は男の旅を、ロマンチシズムでしか理解できないのだ。男はそこで、全てが終ったと感じたのである。 男が「定着」にしばしば振られていくのは、香具師稼業の只中に襲いかかる、「恒常的安定感」の欠如を感じたときでもある。男は単なる「旅人」ではないのだ…
18年後、そんな女のもとに男から金が届けられた。 修道院にあって既に年老いたが、自らの幸福を遮蔽する何ものも持たない女は、男の待つアメリカに旅立とうとした。その瞬間、いかにも初老の小さな身体が崩れ落ちていった。決定的な飛翔のとき、女にはそれ…
「流れる」は残酷な作品である。 しかしその残酷さは、成瀬的映像宇宙の支配下にあって、ごく通常の人生模様の断面でしかない。 成瀬は一切の奇麗事な装飾を、その作品群から潔いまでに剥(は)ぎ取っている。そこで剥ぎ取られて残ったものだけが、成瀬にと…
やはりこれは、「純愛一直線」という単純な括りで片付けられる映画では決してない。 吉岡夫人は、松五郎を最後まで異性の対象として見ることはなかった。男の親切に対して、夫人は一貫して、謝礼金という形でしか恩に報いることをしなかったのである。 その…
「浮雲」―― それは多分に諧謔性を含んだ一連の成瀬作品と明らかに距離を置くような、男と女の過剰なまでに暗鬱なる情念のドラマである。 大体、ここまで男と女の心の奥の襞(ひだ)の部分まで描き切った映画が他にあっただろうか。 時代がどのように移ろうと…