男と女('66) クロード・ルルーシュ<「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳>

  1  「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳


 クレイジーラブやミラクルラブが溢れ返る映画に馴致し過ぎてしまうと、何とも退屈な映画にしか見えないことを再認識させられる一篇。

 しかし、このような私的事情を抱える男女がいて、このような心理的交叉を継続していくならば、現実には、このような男女の関係しか構築できないだろうと思わせる説得力があった。

 この説得力が、本作を根柢において支え切っていたのである。

 実際のところ、そこに「禁断」の印が張り付いていなかったり、思い詰めた末の「駆け落ちの推進力」であったりするならば例外だが、本来、「非日常」の世界に捕捉されやすい性格を持ちやすい時間の大半を、本作のように、親子ぐるみの「日常」の稜線上に地道に構築される男女の〈愛〉の様態の多くは、恐らく退屈極まりないものだ。

 長いスパンを要して、漸く、惚れた女の手を握る男と女の〈愛〉を丁寧に描くことで生まれる、フラットな展開による退屈感を希釈するために、作り手は、この映画に二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入した。

 「日常」と「非日常」が微妙に交叉する中で、「逢瀬」の度に少しずつ、「距離」を縮めつつある大人の男女の繊細な関係の振幅の内に、「叙情」と「緊張」という「視聴覚の刺激効果」を挿入したのである。(画像はクロード・ルルーシュ監督)

 それは、本来なら退屈極まりない時間の共有を累化させていく、内面的には「プロセスの快楽」の渦中にある至福の境地を占有する時間でありながらも、それを観る者には届きにくい心理に訴求力を持たせるための技巧であった。

 その技巧とは、男女の心理に寄り添い、それを代弁するような「音楽」の導入であった。

 これが、「叙情」である。

 もう一つは、男女の心理の中枢を、時空を抜けて劈(つんざ)いていく「映像」の導入である。

 これが、「緊張」である。

 ここで重要なのは、この「緊張」の描写が、モノクロやセピア色、更にカラーの色彩を纏(まと)って映像の「緊張」を掻き立てていく技巧が、「物語」を補完する決定的な役割を担っていることである。

 なぜなら、この「緊張」の描写の中に、忘れようとしても決して忘れられない、配偶者の悲惨な死に関わる描写が特定的に切り取られていたからである。

 最も愛する者を喪った者の「グリーフワーク」は、新しい魅力的な異性との邂逅によって、簡単に具現し得るほどのレベルではなかったと言える。

(人生論的映画評論/男と女('66) クロード・ルルーシュ<「叙情」と「緊張」という二つの「視聴覚の刺激効果」を挿入する〈愛〉の揺曳>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/66.html