フライド・グリーン・トマト('91) ジョン・アヴネット <「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマのお座成りな張り付け>

 1  「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマのお座成りな張り付け



 何となく観て、何となく気に入った映画を、批評の視座を加えて観るとき、初頭効果的に過ぎない、「何となく気に入った映画」への印象が全く変わってしまうケースが多い。

 それは、何となく観ているが故の、殆ど必然的な結果である。

 本作は、その代表的な例だった。

何より本作は、更年期というお手軽な手品を利用して、老人ホームで元気に暮らす老女の、自己基準に則した「お伽話」を聞くだけで、いとも容易に「人格変容」を遂げていくという物語のお座成りな張り付けのうちに、アメリカ映画の最も粗悪な部分が集中的に表現された作品ではなかったか。

 そこでは、人間の情感体系が劇的に変容していくときの複雑な心理の振幅が、ユーモア含みのリスナーの振舞いのうちに完全に蹴飛ばされてしまっているから、ヒロインの人物造形がフラットな外的表現力を越えられなかったという瑕疵を必然化してしまったのである。

 加えて、「人種、世代、文化、貧富等々の垣根を越えて、人は助け合って生きている」=「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマが、初めから見え見えなのに、「現在」と1930年代の南部の文化の「回想」を、強引に交錯させる手法のあざとさだけが目立ってしまったのだ。

 その結果、回想という自在な「物語」の「語り」を駆使して、「あれもこれも」描かざるを得ない、抑制の効かない過剰な色気が全開し、物語展開を広げ過ぎた瑕疵が、ダラダラとした130分の長尺なヒューマン・ドラマと付き合わさせるに至ったのである。

 以下、それを検証するエピソードを再現してみる。



 2  「トゥワンダ!」と叫ぶ女の「人格変容」の奇跡譚



 夫にも相手にされず、スーパーの買い物では車にぶつけられ、「豚」扱いのエブリンは、泣きながら、溌剌たる老女の二ニーに吐露した。

 「自分が情けなくて、役立たずの女。だらしなく食べて、毎日我慢しようとして、我慢できないの。家中あちこちにチョコバーが。1つならともかく、10も11も。ワギナも見られない女よ。限りなく食べて、超デブになる勇気もない。どうしたらいいの?もう若くなく、でも、まだ年寄りではない。頭が変になりそう」

 笑みを浮かべながらの二ニーの反応は、以下の一言。

 「心配ないわ。更年期の症状よ」

 ここで突然、エブリンは泣き出すのだ。

 「突然、泣き出すのも症状よ」

笑い出す二ニー。

 全て吸収してくれるのである。

 「ホルモン不足よ。家にいないで、何か仕事をするのよ」

 この二ニーの一言は、効果覿面(てきめん)だった。

 二ニーとの会話の後、ソウルフードとも思しき「フライド・グリーン・トマト」を売りにする、「ホイッスル・ストップ・カフェ」という独立カフェを立ち上げる話を聞くや、途端に元気が漲(みなぎ)るエブリン。

 そして、フランクに象徴されるKKKとの「戦争」の話を聞いたときには、エブリンはスーパーでの屈辱を晴らすのだ。

 
(人生論的映画評論/フライド・グリーン・トマト('91) ジョン・アヴネット <「善き関係の構築が、人間を変容させる」という基幹テーマのお座成りな張り付け>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/06/91.html