バウンティフルへの旅('85)    ピーター・マスターソン <「郷愁の念」によって切断された「現実との折り合いの悪さ」>

 1  「郷愁の念」によって切断された「現実との折り合いの悪さ」



 観念としての死がリアリティを持ちつつある自我の中で、「現実との折り合いの悪さ」が「郷愁の念」を喚起し、喚起された「郷愁の念」が拡大的に自己運動を起こすことで「現実との折り合いの悪さ」を切断することに成就した。

 「現実との折り合いの悪さ」を切断することに成就した自我のうちに、一気に解放感が広がり、「郷愁の念」が沸点に達した。

 しかし、沸点に達した「郷愁の念」が出会った故郷であるバウンティフルの現実は、今や最後の住人の葬儀を終えたばかりで、すっかり廃墟と化していた。

 それでも良かった。

 喚起された「郷愁の念」に抱かれた自我には、もうそれで充分だったのである。

 「郷愁の念」に抱かれた自我は、魂の故郷であるバウンティフルの空気を吸い、バウンティフルの土に触れるだけで充分だったのだ。

 既に、喚起された「郷愁の念」が、拡大的に自己運動を起こす過程で遭遇した幾つかの他我との交叉によって、限りなく相対化されていたからである。

 だから、魂の故郷であるバウンティフルの空気を吸い、バウンティフルの土に触れることによって、「現実との折り合いの悪さ」をも相対化させ、「和解」という軟着点に辿り着くことが可能だったのだ。

 感銘深いロードムービーである本作を要約すれば、以上の文脈に尽きるだろう。



 2  「脱出」・「出会い」・「吐露」・「別れ」という、老女の「回帰願望」の行方



 「現実との折り合いの悪さ」を、必要以上に感受する当該人物の名は、キャリー・ワッツ。

 老い先短いと覚悟する、心臓疾患を持つ老女である。

 そのキャリー・ワッツに対して、「現実との折り合いの悪さ」を感受させて止まない対象人格は、キャリーの息子(ルーディ)の嫁ジェシー

 キャリーとジェシーの関係に横臥(おうが)する折り合いの悪さ ―― それは、ある意味で「性格の相似性」という風に言えようか。

 両者とも自己主張が強く、相手に対する妥協心が欠ける性格の持ち主。

 それは、日常的想念を心の奥に容易に封印できない直截的性格とでも言えるだろう。

 共に相応に認知し得るだろう自己主張力の強さと、妥協を忌避する攻撃性が、この両者の折り合いの悪さの根柢に横臥(おうが)していたのである。

だからキャリーは、嫁の眼を盗んで出奔した。(画像は、米国で最大規模のバス会社のグレイハウンドバスで長距離バスとして有名)

 彼女の故郷であるバウンティフルへの旅に、キャリーは打って出たのである。

 そんな彼女が、喚起された「郷愁の念」によって、拡大的に自己運動を起こす過程で遭遇した経験は、彼女の心に本来の温もり感を復元させるに至った。

 もうそれだけで、彼女の喚起された「郷愁の念」の対象となった、バウンティフルへの旅の目的の半分は、殆ど達成されたと言える。

 
(人生論的映画評論/バウンティフルへの旅('85)    ピーター・マスターソン <「郷愁の念」によって切断された「現実との折り合いの悪さ」>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/01/85.html