サウンド・オブ・ミュージック('64) ロバート・ワイズ  <訴求力を決定的に高めて成就した「内的清潔感」という推進力>

 1  訴求力を決定的に高めて成就した「内的清潔感」という推進力



 本作を根柢において支えているもの ―― それは、ジュリー・アンドリュース演じる修道女マリアの人物造形が、眩いまでに放つ「清潔感」である。

 「素直で、健全な若者育成映画」、「観ると心が洗われる」という多くのユーザーレビューに典型的に現れているように、マリアの人物造形がに放つ「清潔感」とは、私の把握で言えば、以下のようなファクターの集合であると言っていい。

 そのファクターを列記してみよう。

 その1。
 透き通るような高音を、響き合う旋律の中で、高らかに歌う「美しい音楽」。
その2。

 子供と素朴に戯れ、歌い、教育することを全く厭わない「純粋無垢」のメンタリティ。

 その3。

 〈性〉をイメージさせない「純愛志向」の愛情観。
その4。

 アルプス山麓の美しく、壮大な風景から開かれるシーンに集約される「自然への愛着」の深さ。

 その5。

 修道院(理解力のある修道院長のサポートも手伝っていたが)や、トラップ家の「絶対規範」を相対化するメンタリティ。

 以上、この5つのファクターの集合が、マリアの人物造形がに放つ「清潔感」を体現させていると、私は考えている。

 この中で、5つ目のファクターである、修道院やトラップ家の「絶対規範を相対化するメンタリティ」とは、「絶対規範」の遵守によって、知らずのうちに作られる「濁り」の空気感を相対化し、それを弾くことで、「自在性」を手に入れるメンタリティのことである。

 それは本質的に言えば、世界観、人生観を狭隘なイデオロギーよって固めないことでもあるだろう。

 ここで、私は改めて考える。

 一体、「清潔感」とは何なのか。

 普通に定義すれば、「清潔感」とは、「異物への拒否感」である。

 思うに、「清潔感」についてこの定義は、私たち日本人の感覚に最もフィットするものだろう。

 なぜなら、多くの日本人にとって、「清潔感」とは、「異臭」を嫌う我が国の、「物理的清潔感」のイメージに近い何かであるからだ。

 従って、殆ど「生理的嫌悪感」という欺瞞的言辞を被せた、この「物理的清潔感」は、「外的清潔感」という概念に置きかえられるものと言っていい。

 ところが、マリアの人物造形がに放つ「清潔感」は、「異臭」を嫌う我が国の「物理的清潔感」=「外的清潔感」に収斂されるものではないのだ。

 それは、「内的清潔感」とも言える概念に最も近いだろう。

 本作は、修道女マリアの人物造形が放った「内的清潔感」の推進力によって、観る者への訴求力を決定的に高めて成就したミュージカルである。

 これが、本作についての、私の基本的把握である。
 
 
 
(人生論的映画評論/サウンド・オブ・ミュージック('64) ロバート・ワイズ  <訴求力を決定的に高めて成就した「内的清潔感」という推進力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/64.html