エレニの旅('04)  テオ・アンゲロプロス <極点まで炙り出す悲哀の旅の深い冥闇のスティグマ>

 1  「生涯難民」という懊悩を刻む呻き



 アンゲロプロスの映像世界の本質が、20世紀という、人類史上にあって、そこだけは繰り返し語り継がれていくであろう特段の、しかし際立って尖った奔流が、脆弱なる抑制系を突き抜けて垂れ流した爛れの様態の中枢に、鋭利な作家精神によって深々と切り込んでいく壮絶なまでの何ものかであることを、最高構築力の成就によって改めて認識させられた一篇。

 感傷含みのレトリックのトラップで、安直に言語化し得ないほどの凄い映像だった。

 20世紀こそ、アンゲロプロスの拠って立つ自我の大海原のルーツなのだろう。

 二度に及ぶ大戦と、繰り返される内戦とクーデタ―、共産主義と革命、ファシズム国民国家の崩壊の危うさと、それと地続きによる国境と大量難民、等々、20世紀に分娩された厄介なアポリアが、新世紀に入ってもなお延長される脅威をシニカルに視覚するアンゲロプロスの旅程には、終わりが見えないようなのだ。

 それにしても、特定個人の悲哀をここまで深く抉り出した映像が、かつて存在しただろうか。
 
 本作のヒロインであるエレニの悲哀の本質は、「想い、愛し、共存し、それを継続する人並みの実感」を手に入れる対象人格を、悉(ことごと)く喪失した冷厳な現実のうちにある。

 息子ヨルゴスの遺体を前にして、終わりが見えない慟哭を刻む、エレニのラストカットで閉じる映像の感傷含みの狡猾さに対して、異議を挟めない物語の骨格の太さがそこにあった。

 愛する夫アレクシスとの駆け落ちに尽力してくれた、ヴァイオリン奏きのニコスを匿った罪で投獄生活の辛酸を嘗めたエレニが、愛情喪失の甚大な衝撃によって、行路病者のように彷徨った挙句、気を失って路傍に倒れ果てた。

 内戦が終結した1949年のことだった。

 村人に介抱されたエレニは、夢遊状態の中で、幻覚・幻聴に捕捉された者の呻きを捨てていく。

 「看守さん、水がありません。石鹸がありません。子供に手紙を書く紙がありません・・・また違う制服ですね。名前はエレニです。反逆者を匿った罪です。今度はどこの牢獄ですか?・・・看守さん、水がありません。石鹸がありません。子供に手紙を書く紙がありません・・・また違う制服ですね。あなたはドイツ人ですか?名前はエレニです。・・・銃弾は1発は幾らですか?命は一つ幾らですか?・・・制服はどれも同じに見えます・・・私は難民です。いつ、どこへいっても難民です。3才のとき河辺で泣いていました・・・水がありません。石鹸がありません。子供に手紙を書く紙がありません・・・」

 エレニの内側に張り付く、拘禁性神経症に罹る患者が引き摺るようなトラウマの恐怖を、うなされながら、寄る辺なき自我が震え、悶え、慄き、怯え切っているのだ。

 アンゲロプロスらしからぬ、同じ言葉を繰り返し吐き出すヒロインの呻吟を、執拗にカメラが捕捉するシークエンスが、決して説明過剰な感傷過多のトラップに陥らなかったのは、このシークエンスに至るエレニの半生を決定付ける、寄る辺なき「生涯難民」の心象風景の荒涼感が、観る者に深々と印象付けられていたからである。
 
 
(人生論的映画評論/エレニの旅('04)  テオ・アンゲロプロス <極点まで炙り出す悲哀の旅の深い冥闇のスティグマ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/04.html