蜂蜜('10)  セミフ・カプランオール <正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童の自我を噴き上げた情動の氾濫>

 1  行間を語らないことによって保証された映像宇宙のイメージ喚起力



 映画の中で提示された物語が、その映画総体の中で、殆ど「予約された感動譚」の本質とも言うべき、2時間程度の時間限定的な物語のうちに自己完結してしまう映画の脆弱さは、物語の肝の部分だけが特化され、切り取られた形で集中的に提示されてしまうので、観る者の主体の表層にヒットした心地良き情感系が、束の間、騒いで止まないだろうが、それはどこまでも、賞味期限を持つ「虚構の感動譚」の、「快然たるヒーリング効果」を保証する以上の決定力を有しないからである。

 その類の「予約された感動譚」は、観る者の主体に「解釈の自在性」を担保させないが故に、観る者の主体の内側に喰い入るように侵入し、そこで主体に関わる普遍的なテーマ思考からの逃避を寸止めにさせる映像的提示の、深く、シビアな固有の表現世界にまで昇華し得ないのである。

 観る者の主体の内側に、そこで提示された問題意識を共有し得るミニマムな考察すらも捨てられてしまうから、「虚構の感動譚」の虚構性の持続熱量が剝落する瞬間こそが、その映画の賞味期限の初発点になってしまうのだ。

 それが、時間限定的な物語のうちに自己完結してしまう映画の脆弱さの崩れ方の、その裸形の様態である。

 最後まで、観る者の主体の内側に、「解釈の自在性」を担保させない「虚構の感動譚」の、何とも言いようがない軽量感。

 「虚構の感動譚」の虚構性の崩れ方とは、まさに浮薄なナルシストの自家中毒をなぞるものではないのか。

 「虚構の感動譚」の言いようがない軽量感と明瞭に切れた、本作の最も評価すべき点は、吃音症の児童が、唯一、言語交通の可能な父との密かな会話が拾われているだけで、一切の描写が、映像の固有の表現世界のみで勝負しているという、その一点にあると言っていい。

 映像の固有の表現世界が提示する構図の大半が、特定的に切り取られた一幅の絵画であり、感傷を誘(いざな)う音楽の代りに、後述するように、「野生の動物のざわめきと鳴き声、夜の鳥、突然吹く風、日中止まずに降る雨、緑の何十もの異なるトーンとただよう霧」(セミフ・カプランオール監督による表現)等々の、自然が醸し出す効果音で埋め尽くされるのだ。

 当然、説明的なスクリプト(脚本)を一切排し、オープニングシーンの長回しのフィルムロジックに集中的に表現されているように、観る者の主体の内側に「解釈の自在性」を担保させる構図の連射は、そこから開かれる固有の映像宇宙のイメージ喚起力を誘導し、まるでそれは、評判の高かったクラウス・ハロ監督によるフィンランド映画、「ヤコブへの手紙」(2009年製作)の「虚構の感動譚」の虚構性の崩れ方とは切れて、逆に、行間を語らないことによって提示された、充分な余白を埋めるに足る知的過程を保証する映像構成を構築していて、蓋(けだ)し圧巻だった。

 
 
(人生論的映画評論・続/蜂蜜('10)  セミフ・カプランオール <正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童の自我を噴き上げた情動の氾濫>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/04/10.html