灰とダイヤモンド('58) アンジェイ・ワイダ <〈生〉と〈死〉を分ける禁断のラインを挟んで、一瞬交叉した、「ポーランドの悲劇」の象徴的構図>


 ここに興味深い報告がある。

 アンジェイ・ワイダが、如何にスターリン体制のソ連の管轄下にある検閲当局を潜り抜け、体制批判を盛り込める映像を作り出したかという報告である。

 「映画監督アンジェイ・ワイダ ─― 祖国ポーランドを撮り続けた男」というNHK・BS2の放送(2008年6月15日)をベースにした、「『灰とダイヤモンド』で見る検閲」というブログによるレポートを、筆者なりに加筆して要約すると、以下の通り。

 イェジ・アンジェイェフスキーが1946年に発表した小説である「灰とダイヤモンド」の主人公は、人間味豊かなポーランド労働者党県委員会書記のステファン・シチューカであったが故に、スターリン体制のソ連の管轄下にある検閲当局は全く問題なしと見ていた。

 ところが、アンジェイ・ワイダ監督は、こういう作品だからこそ検閲を潜り抜け、体制批判を盛り込めると考えて、シチューカを主人公にした小説を映像化するとき、原作ではあまり登場しないマチェクに主人公を変えたのである。

 マチェクは、人間味豊かなシチューカの暗殺者。

 しかも彼はラストシーンにおいて、保安隊に見つかった後、町外れのゴミ捨て場に放置され、呻き、惨めに死んでいくのだ。

 映画を観終わった検閲官は、拍手喝采をして絶賛したそうだ。

 偉大なる同志シチューカが志半ばで、愚劣なブルジョアの手先であるマチェクに暗殺されたものの、件のテロリストは「屑」らしく、一欠片(ひとかけら)の商品価値をも持たないゴミ捨て場で朽ち果てるのである。

 こうした無益な「反乱」は徒労でしかなく、その代わり、スターリン体制下のポーランド社会主義は雄々しく前進していく訳だ。

 文句の余地なきプロパガンダ映画の完成に、検閲当局はほくそ笑んだに違いない。

 しかしその辺りが、イデオロギー濃度の深い「人間音痴」のダメなところである。
 
 彼らは「大衆心理」が分っているようで、要所要所で、いつも抜かりがあるのだ。

 公開された映画を見た観客の反応は、明らかに違っていた。

 以下、ブログから引用する。

 「観客は、感情移入したマチェックがゴミ捨て場に放置され、死んだ犬のように扱われている姿に涙し、当局の非人間的な仕打ちに憤りを覚えたのです。

 これが監督の狙いでした。

 検閲は、通常、製作者と検閲官の間の駆け引きだと思われています。しかし、検閲がなぜ行われるのかと言えば、それが第三者に公表するにふさわしいかどうかを審査するためです。権力の見せたいものほど、民衆には別の思いを抱きがちです。監督は当局と観客の意識のズレに着目し、そこを利用しました。監督は観客と意識を共有し、その市井の人たちを信じたのです」(ブログ「『灰とダイヤモンド』で見る検閲」より)

 「大衆心理」を読み切ったアンジェイ・ワイダ監督は、イデオロギー濃度の深い「人間音痴」の検閲当局との、「表現の自由」を巡る「もう一つの戦争」に勝利したのである。

 以上、縷々(るる)言及してきたが、まさにそれこそが本作の構造を端的に説明していると思えるからだ。

 要するに、ゴミ捨て場でのマチェクの犬死の描写の内に読み取れる象徴性こそ、本作を貫流する基幹メッセージであるということである。

 
(人生論的映画評論/灰とダイヤモンド('58)  アンジェイ・ワイダ <〈生〉と〈死〉を分ける禁断のラインを挟んで、一瞬交叉した、「ポーランドの悲劇」の象徴的構図> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/07/91_27.html