震える舌('80) 野村芳太郎 <叫ぶ娘、走る父、離脱する母――裸形の家族の復元力>

 1  室内に絶叫が劈いて―― 発症、そして入院



一匹の美しい蝶が舞っている。

震える舌」という大きなキャプション(字幕)が、ブルーの映像をバックにその蝶を大きく映し出す。その蝶を採るために、一人の少女が虫採り網で追っている。

しかし、なかなか捕えられない。蝶を採り逃した少女は、湿地の沼に手を入れて、そこで何かを捕捉しようとした。それも上手くいかなかった少女の右手の中指に、ほんの小さな血の塊が付着した。

それが、本篇で描かれた残酷なまでに容赦なく、しかし、とても他人事とは思えない、非日常なる苛烈な映像世界の始まりとなったのである。

映像の背景となった地域は、千葉郊外のマンモス団地。その近くに、葦の繁茂する湿地がある。少女はそこで楽しく、一人遊びに興じていたのである。
少女の名は昌子。三好夫妻の一人娘である。

その昌子が、食事中に右手に持ったフォークを落としてしまった。

「どうしたのよ、まあちゃん?」

母の邦江は、娘の珍しい粗相を注意して、フォークで食べさせようとした

「甘えんじゃないの。自分で食べなさい」と父。

フルネームは三好昭。

「あなた、昌子ちょっと風邪気味なのよ」
「だったら、なおさら余計食べなきゃダメじゃないか!」

邦江は昨日病院に娘を連れて行ったことを説明し、何かと厳しい夫に対して、一人娘を庇ったのである。

その後、邦江は髪が半分抜け落ちた人形を夫の前に差し出して、娘への理解を求めた。

「可哀想に、ノイローゼになっているのよ、あの子。やっと幼稚園なのよ。体の大きさだって、あなたの5分の1しかないじゃないの。あの子にしてみたら、お化けみたいなものに怒鳴られているんだから、耐えられないわよ、昌子だって。大人だってできないこと、強いるんだから・・・」

妻にそこまで言われた夫は、それ以上何も言えなかった。

しかし、異変は劇的に家族を襲って来たのである。

翌日、夫の昭は衝撃を受けていた。

「おい、見てみろ」
「まあちゃん、どうした?」と妻。

夫婦がそこで見た風景は、信じ難きものだった。昌子の歩行が困難になっているのである。

「何でもない」と昌子。
「だったら、ちゃんと歩けるでしょ。歩いてみな」と父。
「歩ける。でも歩きたくない」と娘の昌子。

娘に異変を感じた夫婦は、翌日病院に連れて行くことを決めたことで、一応自分たちの不安を抑え込んだのである。

その晩、三好家の室内に絶叫が劈(つんざ)いた。

昌子が突然、発作的な痙攣を起こし、口の中は血だらけになっていたのだ。

夫婦は必死に娘が舌を噛み切らないように、口に指や割り箸を挟んだ。

直ちに救急車を呼んで、夫婦は共に乗り込み、娘を救急病院に搬送して行ったのである。
 
 
(人生論的映画評論/震える舌('80) 野村芳太郎 <叫ぶ娘、走る父、離脱する母――裸形の家族の復元力> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/80_25.html