スモールステップの達人

 ここに、一人のプロボクサーがいる。(写真) 

 現時点(2000年3月)で、前東洋太平洋某級のチャンピオンだから、彼は成功したボクサーと言っていい。

 彼とは、彼が中学2年生以来の付き合いだから、その間、何年かのブランクがあったにせよ、早いものでも14年が経つ。そして彼が18歳でプロデビューしてから、30戦近くの全試合を、彼の好意によって、私はつぶさに観戦する機会を得た。

 単にスポーツ好きなだけのズブの素人が、ハラハラドキドキしながら、「あしたのジョー」を目指す若者の苛酷なファイトを観戦していたら、いつの間にか、彼の階梯はその上がないところにまで昇り詰めていた。

 これが正直な実感である。こんなことだったら、きちんとデータにして、それを保存しておくべきだったと考えたが、後の祭り。
 
東洋のボクサーの頂点に立ち続ける若者の勇姿を見て、私は真剣に考え始めた。「なぜ、彼は成功したのか」と。
 
私には、プロ3戦目で、格下と思われる相手に完膚なきまでに叩きのめされて、担架で運ばれて行った若者の痛々しい姿が、脳裏に焼きついて離れない。この敗北を機に、突如リングを捨てた若者は私の前からも姿を消し、私と彼との関係は、この日をもって終焉したかのように思われたのである。

その若者が2年後、私の前に姿を現し、例によって、後楽園ホールの指定席券を届けに来てくれたのだ。20歳になった若者は、プロボクサーとしての再起を賭けて、再び「東日本新人王戦」のリングに立とうと言うのだった。

 リングでの若者は、想像以上に強かった。

この新人王戦に5連勝し、遂に決勝のリングに立ったのである。しかし若者は、そこで敗れてしまった。またしても、正視できないほどの無残なKOだったのだ。勝者が勝利のインタビューを受けている間、若者はまだリングに伏していた。やがて敗者となった若者はモゾモゾと体を起こし、肩を担がれるようにして、まばらな拍手の中に消えていったのである。

何という苛酷なスポーツなのか、とその時ほど痛感したことがなかった。勝者と敗者の双方にこれほど意識の落差を作り出すスポーツが他にあるか、とも思った。これが彼の決定的敗北のシーンと出会った、私の最後の経験となったのである。

 二度目の敗北の後、若者は、今度ばかりはリングを捨てなかった。

日本新人王には辿り着くことができなかったが、若者は充分に強かった。当然のように全く注目されなかったが、ボクサーとして最も重要な時間の中を、若者は堅実に、どこまでも自分の進化の律動をもって移動していったのである。

 B級トーナメント戦からA級トーナメント戦を経て、遂に、日本ランカー入りを果たした若者に後援会が発足しても、若者の苛酷な日常に変化はなかった。東洋の頂点を極めた若者の日常にも変化がなかった。あれだけ荒れていた、中高生時代の不良のイメージと全く重ならない秩序だった日常が、常に若者を囲繞(いにょう)していたのである。
 
彼は明らかに成功したボクサーだった。
 
 その成功は、意外なほど眩いものではなかったが、寧ろ、鈍い輝きの中にこそ彼の成功の秘訣がある、と私は考えた。彼こそ有数のスモール・ステップの達人だったからだ。

 彼の格闘技人生を要約すれば、「スモール・ステップの法則」(注1)の採用を通して、常にトーナメント方式の一回勝負のリング人生を、その度に自己完結してきたと括ってみることができる。一回ごとの自己完結感がストレスを残さず、新たな目標に向かってエネルギーを効率的に集中させていくスキルを生み、これが顕著な技巧の向上に繋がったのである。
  
 ここで重要なのは、彼のスモール・ステップ戦略による、無理のない一階梯ごとの目標設定が、彼の技術的向上の速度を決して上回らなかったということである。

 私の知っている限り、その才能に任せて強引な駈足登山(一戦ごとに、数段強い相手を選ぶというビッグ・ステップ戦略)を敢行して、一気にストレスを溜め込んでしまい、無理に完全燃焼を果たした挙句、未消化のまま、格闘技人生を自己完結できないでいるミスマッチの選手があまりに多い。

 これは、駈足登山によって当然要請されるべき技術的、心理的成熟の速度に、自分の能力的進化の速度が追いついていないためである。一言で言えば、世界戦を堪え切る技術的、経験的成熟を果たしていないのに、無謀にも、勢いとパワーだけでリングに上る若者が後を絶たないということ以外ではないのだ。このリアリズムの圧倒的な欠如に、私は驚きを禁じ得ないのである。

 しかし彼は違った。

 彼はその等身大の格闘技人生の故に殆ど注目されず、人気も低かった。だが、群を抜いて堅実だった。突進的なファイターでもなかった。巧妙なアウトレンジ戦法(注2)を磨き上げ、カウンターで仕留める典型的な「距離のボクサー」だった。だから確実に進化を遂げていったのである。
 
 華やかなフットライトで不必要に分娩されるエネルギーを、彼は丸ごと純粋進化の時間に傾注できたのだ。それを支えたのが、微塵も破綻を見せなかった、驚くほど謙虚な彼の職業的態度だった。彼に限って、その時々の対戦相手を踏み台として見るようなパフォーマンスは、遂に一度もなかった。相手に対して、常に「畏敬の念」(=恐怖感)を持って対峙する常勝のボクサーが、かつてこの国のボクシング・シーンに何人いただろうか。
 
 だから彼の眼の前の一戦の重みは、他のボクサーの重みより、いつでも少しずつ「畏敬の念」の分だけ増していった。そこに一戦ごとの大勝負が生まれた。自己完結感が手に入ったのだ。そこに、彼の成功の秘訣があったのである。
 
 その辺のところを、もう少し心理的に掘り下げてみる。
 
 彼の成功の秘訣が、彼のスモール・ステップ戦略に起因すると重ねて言及してきたが、その具体的な方法論が、ランカー入り以前のトーナメント戦へのアクセスにあったことは自明だった。比較的短い試合間隔によって、目標設定を「今、すぐそこにいる敵を倒す」という明瞭なラインで囲い込み、そこに「最大集中力」と、「最高身体条件」を作り出していったのである。

 その時点での自分の能力に相応しい、眼の前にいる一人一人のライバルとのサバイバル戦が、彼の初期のボクシング世界の全てだった。その向うには何もない。日本チャンピオンの称号も、ランカー入りの思惑も、まして世界チャンプへの幻想など微塵もなかった。緩慢な歩みに見えるほど、彼がランカーの階梯を一歩ずつしか昇っていかなかったのは、自分の能力を過信しなかったからだ。

 かくて、内在する能力を確実に向上させるに足る最適速度が、一人の若者を強(したた)かなプロボクサーに変貌させていく。無理のないスキルの合理的な獲得速度と歩調を合わせる律動を、恐らく彼は大切にしたかったのである。
 
 トーナメント戦の選択は、彼の心情ラインに恐ろしいほど嵌ったと思われる。

 身近な目標を持っていないと、彼は動けない性格だった。「世界チャンプになる」という夢物語によっては、自らの快走の継続性を支え切れないのである。身近に具体的で緊張感溢れる目標を持つことで、常に「決して負けられない」心理状況を作り出す必要が生まれたのである。
 
 ここにもう一つ、重要なモチーフがある。
 
 彼を駆り立てていくものの根柢に、「惨めに負けた自己を認めたくない」という心情が根強くあることだ。彼は人一倍負けず嫌いだった。いや、単に負けることが嫌いなのではない。惨めに負けることが嫌いなのだ。惨めに負けた自我が、未来を食(は)んでいく恐怖に耐えられないのである。自信がないのだ。だから、惨めに負けさえしなければ耐えられるのである。

 極言すれば、「勝つこと」、加えて言えば、KOによる圧勝こそを、彼がファイトで手に入れたい第一義的価値ではない。勝つことよりも、惨めに負けた自我を引き摺らないで済むイメージこそが、遥かに本質的な事柄だったのだ。一つ一つの積み重ねによる勝利は、彼のこうした心理的文脈に適うものであるに過ぎないと言える。それ故、彼が惨めに負けないためには、惨めに負けないための、彼なりの格闘技人生の様式を必要とするということである。それがスモール・ステップ戦略による、一回勝負のトーナメント戦へのアクセスだった。

 ここで惨めに負けたらリングを去るという覚悟で、彼は常に戦い、このシビアなまでの綱渡りに勝利したのである。

 だが、一回だけ惨めに敗北し、そして本当にリングを捨てた。たった一度の惨敗でリングを捨ててしまうほどの過剰な心情的固執が、この若者の特異さであり、凄みでもあったのだ。

 その後、日本チャンピオンを賭けた初挑戦で彼が敗れたときの、小さな笑顔すら浮かべた、その淡々として落ち着いた表情を、私は決して忘れることができないだろう。際どい判定で敗れたとき、彼の応援席から座布団まで乱れ飛んだほどの限りなくグレーなジャッジの中で、敗者が見せた表情の爽やかさは鮮烈だった。勝てなかった悔しさよりも、惨めに負けなかった安堵感の方が、若者の心情を支配していたからである。少なくとも、私にはそう見えた。
  
 自我防衛ラインの内側を堅固にして、常にこれだけは譲れないという何かを深々と持つタイプのボクサーを、私は寡聞にして知らない。この生来的なメンタリティが、彼の成功のもう一つの秘訣だった、と私は確信している。

 スモール・ステッップの達人に相応しい欲望のささやかだが、しかしどこまでも、その固有なる生き方のライトサイジング(適正規模にすること)を堅持して止まない展開が、そこにあった。

 
(「心の風景/スモールステップの達人」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_9394.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)