ミリオンダラー・ベイビー('04)  クリント・イーストウッド <孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画>

イメージ 11  「想像力の戦争」を巡る知的過程を開く映像



様々な想像力を駆り立てる映画である。

説明的な映像になっていないからだ。

遠慮げなナレーションの挿入も、映像の均衡性を壊していない。

観る者に、本作の余情を決定付けた、ラストナレーションに違和感なく誘導し得る重要な伏線となっている、件のナレーションの抑制的価値が担保されていたからであろう。

そこがいい。

イーストウッド監督の、「チェンジリング」(2008年製作)までの作品群の殆どを観てきているが、恐らく、本作がイーストウッド監督の最高到達点か、或いは、それに近い評価を与えるに相応しい極め付けの映像ではないか、と私は個人的に考えている。

確かに、本作においても、多くのイーストウッド作品に特有な「善悪二元論」的な描写(後述)を内包させていたが、そこもまたイーストウッド監督らしく、いつものように抑制的な技巧を存分に発揮し、映像総体を過剰な情感で流すことはしなかった。

本作に限っては、その抑制的な技巧が相当程度奏功していたと思われる。

思うに、想像力を駆り立てる映画とは、既にそれだけで、作り手は、読解を求めて思考遊泳する観る者の視座とイコール・フィッティング(対等な競争条件)の関係に立っていると言えるだろう。

なぜなら、観る者は作り手の意図と、作り手によって創造され、そこから相対的な自在性を確保して表現する、本作の登場人物の内面世界の微妙な振幅の双方を想像しなければならないからだ。

その時点でもう、作り手と観る者は、「想像力の戦争」を巡る知的過程を開いている。

そこがいい。

そのような映画が、最も秀逸な表現作品であるに違いない。

では、本作をどう把握すべきなのか。

一体、この映画は何を主題にしたものなのか。

以下の稿で、それを勘考してみたい。



2  孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画



少なくとも、これだけは言える。

本作が「ボクシング映画」でも、「安楽死」の是非を問う映画ではないということだ。

だから、スポーツシーンへの不必要な言及や、「社会派」的な視座の導入は、本稿のテーマにはならないだろう。

因みに、後者のテーマに関しては、既に「海を飛ぶ夢」という問題作が公開されているが、本作の映像構築力は、件の映画の作り手の、そこに張り付く青臭い「死生観」を押し付けられるだけの、似非ヒューマニズムの情感系映画に内包された「ハリウッド的欺瞞性」すらも凌駕していたことだけは事実。

本作は、近年のハリウッドの宿痾(しゅくあ)とも言える、「驚かしの技巧」の過剰な連射に関わる範疇から切れていた分だけ、映像構成を貫流するに足る充分な重量感を持ち得ていたということだ。

閑話休題

孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画。

これが、本作に対する私の把握である。

恐らく、それ以外のメッセージは末梢的であるに違いない。

そして、何より本作は、一方の孤独な魂が抱えた人生の軌跡について殆ど何も語られないが故に、そこに張り付く「贖罪」的な観念の束の重量感が、よりリアリティを持って観る者に襲いかかって来るのだ。
その意味で、紛れもなく本作は、このフランキーという名の男の物語であった。

この男の魂のパートナーとなる女の軌跡については、不必要なくらい語られているが、この男の人生の軌跡に関しては、読まれることのない娘に対する手紙の返却というエピソード以外に、映像は殆ど手掛かりとなる何ものも提示してくれないのだ。

しかし、この時間の空白を、作り手は、決定的成功を手に入れられなかった元ボクサー(スクラップ)のナレーションと、彼との会話等を通して、ジグゾーパズルのように埋めていく映像構成の技巧を導入することで、説明的映像に陥らない程度の瑕疵を充分に補填していたと言える。

そこから読解できる一つの真実。

それは、物語の起動点の23年前に遡る。

男は現役時代のボクサーであったスクラップの「止血係」として、109戦目の試合に臨み、そこで彼の視力を奪ってしまった過去に拘泥し、一つの看過し難きトラウマの如く、己が「不徳」の行為を責め抜いていた。

以来、支配下選手に対して、「自分を守れ」と訓戒する生き方を信念とする男は、必要以上に慎重な性格を露わにしていった。

男について、一方の孤独な魂の主である、マギーに語ったスクラップの言葉がある。

「止血係だったフランキーは、あのとき、何とかして試合を止めさせ、眼を救いたかったと思っているんだ」

アイルランド人であるフランキーの教会通いも、そこから開かれていた。

その二つは偶然ではない。

「三位一体」の意味を、見知りの神父に訊ねるエピソードに象徴されるように、男の教会通いの意味がどこにあったかについて、件の神父の反応によって検証されるだろう。

神父もまた一つ覚えの常套句の如く、「娘さんに手紙を?」という私的表現を、男に添えてくるのだ。

安楽死」の問題に関わる、映像後半の重い展開の中で、初めて本気で自分にアドバイスを求めてくるフランキーに対して、神父が放った一言は蓋(けだ)し印象的だった。

「君は23年間、ほぼ毎日ミサに来ている。それは、何か罪を背負っているからだ」

男が背負っている罪の内実を特定できないながらも、映像がフォローする男の後ろ姿には、特段の目的もないのに毎日ミサに通って来る男の、その孤独な魂の陰翳が深々と捕捉されていた。

熱心なカトリック教徒の男には、「聖者」との会話それ自身を必要とする何かがあったのだ。

理由はもう、それだけで充分なのである。

あとは、観る者が想像して欲しい。

映像は、そう言いたいのだ。
 
 
(人生論的映画評論/ミリオンダラー・ベイビー('04)  クリント・イーストウッド   <孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/05/04.html