真夜中のカーボーイ('69) ジョン・シュレシンジャー  <舞い降りて、繋がって、看取った天使、そして看取られた孤独者>

イメージ 1序  カントリーボーイの善良感と、下肢に障害を持つ男の絶対孤独の哀しさ



原題は「Midnight Cowboy」。早川文庫で、原作もある。邦題名は、そのものずばりの「真夜中のカーボーイ(正確には、カウボーイ)」。

この映画をその昔、名作専門館で観たときの感動の深さは、未だ鮮烈な記憶として残っている。

二人の若い俳優の演技力が群を抜いていたこともあって、そこで描かれた不適応な青春の孤独のさまに、当時、ドストエフスキーと観念論哲学にのめり込んでいた自分の青春がオーバーラップされてしまって、止め処なく流れる涙を止める術がなかった記憶が、ノスタルジックに思い起こされてしまうのである。

その後、何度か観直しても、私のこの映画の評価は変わらない。

スケアクロウ」の圧倒的な映像には及ばないが、私にとって本作は、最も大切な「アメリカン・ニューシネマ」の代表作の一本になっている次第である。

カントリーボーイの善良感と、下肢に障害を持つ男の絶対孤独の哀しさ。

それこそが、本作の最も鮮烈な映像記憶の決定的イメージだった。


通り一遍の男の友情を予定調和的に描くことなく、且つ、「アメリカン・ニューシネマ」の「規範からの逸脱性」にのみテーマを限定しなかった、その印象深い人間ドラマのストーリーラインを追っていこう。



1  男娼として夜の街に立って



テキサス生まれのカントリーボーイが、「夢の都・ニューヨーク」に旅立った。男の名はジョー。
 
その目的は、男性的魅力に溢れていると信じる自分の肉体を売って、ひと稼ぎしようというもの。

その脳天気な若者のターゲットは、ニューヨークで無聊を託(かこ)つ小金を持った婦人たち。男は意気揚々と、カウボーイ・ハットを目深に被り、全身をカウボーイ・スタイルに身を包んで、ドリーム・シティにその長身の肉体を闊歩させていく。

男は先ず、中年婦人に声をかけた。

相手からの反応は、「自由の女神」への行き先の説明だった。男の目的を知らされた婦人からの一言。

「恥を知りなさい」

男は夫人の後姿を、呆然と見送るだけ。

ようやく商売になったと思われた相手の女は、パトロン付きの娼婦。ジョーはあろうことか、女に金を巻き上げられてしまう始末なのだ。

自分のイメージ通りにことが運ばないジョーの前に、一人の小男が出現した。

彼の仲間たちから、ラッツォ(ネズ公)と蔑まれているリコである。
下肢に障害を持つリコは、ジョーに、男娼で生きるには仲介者が必要であると説得し、言葉巧みに紹介料を巻き上げたのである。

騙されたことを知らない無邪気なカントリーボーイ、ジョーがホテルで引き合わされた男は、最初から様子が変だった。

「君も孤独だ」
「それほどでも・・・」
「孤独だ。孤独ゆえに酒を!孤独ゆえにヤクを!孤独ゆえに盗み、孤独ゆえに姦淫し・・・孤独を背負っているのだ」

こんなことを叫んだ後、「二人だけで跪(ひざまず)こう」などと訳の分らないことを言う始末。

ジョーは、ようやく自分が騙されたと感じて、ホテルの部屋を飛び出した。

途方に暮れたカントリーボーイの目的は、ただ一つ。

何としてでもリコを探して、金を取り戻すこと以外ではなかった。

ニューヨークの夜の街を走り続けるジョーの心に、焦燥感が生まれていた。

当然のことだが、肝心のリコが簡単に見つからないのである。

持ち金もなくなってきて、都会の孤独を嫌というほど感じていた。理想と現実の違いを思い知らされているのだ。

それでも彼はこの街で生きるために、男娼として夜の街に立った。しかし、そこに現われた若い男はゲイだった。

「金は払ってもらうぜ」とジョー。
「嘘なんだ。金はない」と相手の男。
「25ドル、ないのか?」
「どうする?」
「どうするだと?ふざけるな。ぶっとばされたいか!幾らある?」

ジョーは、相手の胸倉を掴んで恫喝した。

「全然」
「全部、ここに出せ」

手持ちの本を出す相手に、ジョーは彼の時計を奪おうとした。

「母さんが死ぬんだ、止めてくれ」

そんな言い逃れを真に受けたのか、ジョーはもう何もできなくなってしまった。

「いらねえよ」

その一言を苛立ちの感情含みの内に捨てて、ジョーは映画館のトイレを後にした。

 
 
(人生論的映画評論/真夜中のカーボーイ('69) ジョン・シュレシンジャー   <舞い降りて、繋がって、看取った天使、そして看取られた孤独者>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/11/69.html