真実の瞬間(とき/'91) アーウィン・ウィンクラー <自己像を稀薄化できなかった男が炸裂して>

イメージ 11  自己像をを崩す者との戦いの中で



「真実の瞬間」は、私にとって無視できない映画だった。

この映画に対峙するときの私の心象は、自分の置かれた不快な状況とどこかで形而上学的に重なる部分があり、大袈裟に言えば、表現された映像の一つ一つの描写に立ち竦んだり、うずくまったりしながらも凝視する思いを捨てないで、それを捨てさせないギリギリの私の心棒が、辛うじて持ち堪えられたと思わせる映画 ―― それが「真実の瞬間」だったと言えようか。

この作品は私にとって、単なる映画以上の何ものかであった。

それは、苛酷な状況に置かれた者に対する相当の想像力を必要とする映画であるが、私の場合、寧ろ、そこに過剰に入り込み過ぎてしまって、逆に感情を抑制する自我のバランスを欠いた嫌いがある。

「共感的理解」の発動が、些かオーバーフロー気味だったのである。

然るに、この作品に対する世間の評価が低すぎるのは何故なのか。

ハリウッドの評価が低いのは分る。

なぜならこの作品は、ハリウッドが最も知られて欲しくない時代の真実を描き出しているからである。

それも間接的な描写ではなく、ハリウッドそのものが犯してきた、極めてインモラルな実態を真っ向勝負で挑んだ作品だったからだ。

この作品を人間ドラマとして観ても秀逸であるのに、本作に好印象を抱かない映画ファンが多い最大の理由は、当作に描かれた時代背景と、そこでのアメリカ的状況についての無知、加えて、その状況の中で展開された「共産主義者」への弾圧などという、極めて時代の風景にマッチしない設定に対する顕著な無関心というところだろうか。

それについては、その政治的な背景に入念に言及しなかった本作にも責任の一端はあるが、しかし作り手の製作意図が政治的なものでも、或いは、アンチ・ハリウッド的なものでもないと仮定することで、本作を素直に人間ドラマの秀作として受容することは難しくないのである。

また、この映画の監督の「転び方」を揶揄(やゆ)する意見を眼にしたことがあるが、私にとって、本来、プロデューサーであるこの監督の他の製作作品など問題外であり、「真実の瞬間」というこの作品こそが、最大の関心事に他ならないのだ。
なぜ還暦近くなって、アーウィン・ウィンクラーが監督デビュー作にこの作品を選び、且つ、その脚本まで書くに至ったのかという心情を憶測すると、今まで誰もきちんと描いてこなかった、ハリウッド最大のタブーに内包される、「映画人の良心」の問題を社会的に提起したかったのではないかと考えられなくもない。

ホロコーストベトナム戦争についての映画なら掃いて捨てるほどあるが、「マッカーシズム」が荒れ狂った時代に翻弄された良心的映画人の生きざま、屈折のさまという、最も肝心なテーマを映像化してこなかった責任はあまりに重いのだ。

然るに、私はこの映画を、そんな大上段に振り被ったテーマとして把握していない。

それよりも私は本作を、自ら定め、物語化した自己像を人はいかに守り、それを崩す者との戦いの中で、如何に鍛え上げていくかという映画であると見ている。

後述するが、それは、「状況の中で改めて確認した自己像を捨てないか、その自己像を巧みに稀薄化して自己欺瞞に逃げてしまうか」についての映画であるように思えるからである。


(人生論的映画評論/真実の瞬間(とき/'91) アーウィン・ウィンクラー <自己像を稀薄化できなかった男が炸裂して>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/12/91.html