おくりびと(‘08)  滝田洋二郎 <差別の前線での紆余曲折 ―-「家族の復元力」という最高到達点>

イメージ 11  情感系映像の軟着点



2007年の邦画界の不調を見る限り、邦画人気のバブル現象を指摘する論調があって、「邦画の再立ち上げは容易でなさそうだ」(「asahi com」2008年03月04日)と書かれる始末だった。

ところが、翌2008年の全国映画概況(日本映画製作者連盟発表)の報告によれば、洋画収入の激減(前年比23.9%減)に比較して、邦画の興行収入は、過去最高の約1158億6000万円(前年比22.4%増)という飛躍振りだった。

2年ぶりに邦画が洋画を上回った最大の原因は、大谷信義氏(映連会長)も認知していたように、「崖の上のポニョ」の牽引力に因る所が多かったのも事実。要するに、相変わらず、アニメ映画がこの国のキラーコンテンツになっているということだ。

かつて、家庭用ビデオ普及のキラーコンテンツになっていたのがアダルトビデオであった事実を想起するまでもなく、ハリー・ポッター人気がファンタジー映画の氾濫を生んだ構図と全く同じで、結局、商品陳腐化の速度が速まって、いつしか観客も食傷気味になっていた挙句、商品の差別化が困難になって(コモディティ化)、そのうちに、「文化としての雄々しい立ち上げ」がスローガン倒れになっていく流れを必然化するだろう。

そんな状況下で、この国の映画界は、なお「癒し・情感系」の作品に雪崩れ込んでいるように見える。

「癒し・情感系」邦画の氾濫は、ビジネスとして一応の成果を収めたと言えるだろう。金銭と交換し得る価値が自分の心を幾分でも癒し、感動をもらって元気づけてくれる方が精神衛生としては遥かに有益であるからである。

しかし、当初の感動を「ビギナーズラック」にしないために、次に、ワーナー・マイカル・シネマズに代表されるシネコンに出向くときには、「感動の再生産」という期待値を多いに含むから、次第に「より感動的な邦画」との出会いを求めることになる。

邦画愛好者のそのような需要を満たすために、当然、供給サイドに特定的な製作圧力をかけることになるだろう。「より感動的な邦画」への製作圧力は、いよいよ「癒し・情感系」邦画の氾濫に歯止めが利かなくなり、いつしか、かつて、東映やくざ映画がそうであったように、観客を興奮させるためには「何でもあり」の様相を呈していくに違いない。

第81回米アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことで、興行成績ランキングをトップに伸(の)し上げた本作の「おくりびと」は、「癒し・情感系」邦画のカテゴリーの中では、明瞭なテーマ性を持ち、相当に練られたシナリオをベースに、普通の邦画では選択しないような題材を扱うというリスク覚悟の勝負に出たという印象が強い。

しかし、本作で構築された映像世界を客観的に俯瞰していくと、やはりこの映画も他のヒット作同様に、テーマ追求の脆弱な「感涙映画」の範疇を殆ど逸脱することのない作品に流れてしまっていた。

情感系の濃度を深めれば、余分なものが入り込んでしまう分、作品の均衡を崩して抑制が効かなくなり、必然的に作品の完成度を劣化させてしまうのである。

「石文は向田邦子さんのエッセイで最初知ったんですが、石を選んで渡し、相手に思いを伝えるもの。これを何年も前から思っていたんですね。それと食について、生きていくための食、つまり命をいただくということ、食物連鎖というか、命のバトンタッチというか、それをテーマにしたいなと思ったんです」(「eiga・com」HP 小山薫堂氏インタビュー)
以上は、「おくりびと」のシナリオライターの言葉である。

「命のバトンタッチ」(「生命の継承」)、「食物連鎖」というテーマ性は、映画を見れば否が応にも伝わってくるが、しかしあまりに直接的過ぎて、如何にも「作りもの」という印象だけが残像化してしまった。物語を作り過ぎてしまったのである。作り過ぎてしまった分、当然、リアリティが剝落(はくらく)して、これもまたごく普通の情感系邦画の枠を超えられなかったのだ。

そんな中で、興味深い描写があった。

中はとろとろで柔らかい美味を持つフグの白子焼きや、クリスマスの夜の3人のパーティーで、骨付きのフライドチキンをしっかり食べる描写の重要性は、「生と死は繋がっている」と信じる映像世界の死生観に則って、それ故に死者を荘厳な儀式で新しい世界に送り出す納棺師の仕事に携わる者が、「生き物が生き物を食って生きている。死ぬ気になれなきゃ食うしかない。どうせ喰うなら美味い方がいい」という価値観を映し出した所にあり、「困ったことに、美味いんだな、これが」と言わせる場面は、端的にテーマ性を表現していて見事であった。

この描写が物語の自然な流れに寄り添っていて、且つ、自己完結的だったが故にリアリティの剝落もなかったのである。

然るに、映像に三度出てくる「石文(いしぶみ)」のエピソードは、それ自体不要であったと思われる。

なぜなら、「ゴツゴツの大石」を包む楽譜を添えてあった、幼少時代からのチェロを主人公が手に取る描写を嚆矢(こうし)にして、新しい生命を宿した妻との「石文」の遣り取りを経由した後、最後に父の遺体と対面するとき、その手に握られていたのは、幼少時の大悟がたった一度父に渡した、思い出深い「ツルツルの小石」であったという落ちに収斂するのだ。
心の平穏を表すとされる、「ツルツルの小石」を両手で包み込んだ大悟が、それを新しい生命を宿す妻の美香のお腹に押し当てて、妻が新しい生命の父となる夫の手に、自分の手を重ねるというこのラストシーンの収め方は、充分に「作り物の物語」の極致と言っていい。

「石文」という小道具にも生命を吹き込んでいく過剰さは、この国になお息づいていると信じられるアニミズムをも超えて、殆ど童話的なファンタジーの世界以外の何ものでもなかった。

「石文」という、女子供のツールとも思える小道具によって打たれた布石の最終到達点が、30年以上前に妻子を遺棄して、駆け落ちした末に女に捨てられ(?)、落魄(らくはく)した挙句、由良浜漁協の番屋で孤独死を遂げた、憎き父の手の中に握られていた「ツルツルの小石」であったという、相当に無理な設定の内に流れ込むストーリーラインの杜撰(ずさん)さの種を明かせば、6歳時に家を出た父の顔の記憶を失った主人公が、唯一その男を特定できるツールが、自分が送った「ツルツルの小石」だけであったからである。

孤独死の男」が、本当は妻子の元への帰還を果たそうにも、その敷居の高さ故に果たし得ない辛さを負いながら、ひたすら「ツルツルの小石」を懐に抱きながら、「我が子を想う父」という役割を生きてきたと想像させるラストシーンの寓話のレベルは、残念ながら、映像表現の決定力をあまりに欠落させた軟着点だったと言えるだろう。

そこで映像が勝負したかったのは、頬を伝わる液状のラインの中で、父を特定させたその奇跡の小石を、両手で包み込んだ息子が、今度はそれを新しい生命を宿す妻のお腹に押し当てることで、「命のバトンタッチ」(「生命の継承」)を自己完結させるという物語性それ自身であったと思われるが、変転極まりなく、思うようにならない人生の厳しさを情感濃度たっぷりに描いてきた映像の完結点が、童話的なファンタジーに流れ込んでしまったのは些かお粗末過ぎないか。安直過ぎないか。

大体、「石文」という小道具自体、不要だったのではないか。

「命のバトンタッチ」(「生命の継承」)というテーマ性を強調するために、敢えてそれを使いたいなら、「穢れ」に関わる問題で裂かれた夫婦の復元の話の中で、小さくまとめるだけでも良かったのではないか。父を特定する方法は幾らでもあっただろう。と言うより、父との奇跡的な再会譚も余分だったのではないか。

実は、この再会譚の導入の狙いが、単に「石文」の寓話の延長線上にのみ存在しないと思うのは、映像を括るに当って、30万円もする総檜を使った、納棺師としての一世一代の芸術表現を、それをするにはおよそ相応しくない漁港の番屋という、「穢れ」にも通じる、貧しく孤独な漁民=被差別民(実際、大悟の父の遺体は、安価な棺桶を持って走り込むように入って来た2人の葬儀屋に粗略に扱われそうになった)のネグラをイメージさせる閉鎖的空間内で、完璧に執り行うシーンを必要とせざるを得なかったと推測できるからである。
 
 
(人生論的映画評論/おくりびと(‘08)  滝田洋二郎 <差別の前線での紆余曲折 ―-「家族の復元力」という最高到達点>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/07/08.html