クラッシュ ('04)  ポール・ハギス <「自己正当化の圧力」と「複合学習」の困難さ>

イメージ 11  「自己正当化の圧力」と「複合学習」の困難さ



「単に人種差別、人間の不寛容を扱うのであれば、ドキュメンタリーとして作る方が良いからね。人は皆、他人をあまりにも表面的に判断し、平気で厳しく批判しすぎる。その一方で自分のことは複雑な人間だと思い込み、様々な愚行を正当化しようとする。それが我々の人生にどんな影響を及ぼしているのか、人間らしく生きるために何を強いられているのか、そういったことを描きたかったんだ」(ポール・ハギス監督インタビュー 映画.com 2006年2月15日)

このポール・ハギス監督の言葉が、本作のエッセンスを集約していると思う。

本作に対する私の視座は、ポール・ハギス監督の把握を援用して、二点に要約されるだろう。

その一つは「自己正当化の圧力」であり、もう一つは、「複合学習」の困難さである。

「自己正当化の圧力」とは、簡単に言えば、こういうことである。

人間が、自らが犯した行動の誤謬を容易に認知しないのは、それを誤謬と認知したくない意識が働くことで、却って、同様の誤謬を再生産してしまうという、人間の本来脆弱性の心理構造が横臥おうがしているからである。

自らの行動の正当性を信じ切ることによって、自我の安寧を継続的に確保できること、これが全てであると言っていい。

そのために、私たちは過去の心地悪い記憶を、「現在の自己」の文脈に寄り添うように、都合良く書き変えてしまうことも辞さないのである。

行動の一貫性の確保によって手に入れた、自我の安寧の継続性の実感こそが、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ「日常性のサイクル」を、常に「安定」の状態のうちに留めておくことを保証するのである。

逆に言えば、これは、「失敗のリピーター」の心理を言い当てている。

なぜなら、失敗した者が、その失敗を認知しないためには、単に、「方法がまずかった」などという把握のうちに原因を収斂させることが、最も都合良いからである。

かくて、このような「単純学習」の方略の導入によって、一貫して、自分の失敗を認めないような行動傾向が再生産されていくに至るのだ

或いは、似たような失恋をリピートする者は、単に「優しさが足りなかった」などという、「単純学習」を自我に張り付けてしまうことで「忘れ難い経験」を処理し、繰り返し、似たような相手を選んでしまうのである。

「自分の愛」を一貫させることによってしか、件の者の「忘れ難い経験」の価値の正当性を手に入れられない事象の厄介さ ―― これが相当に手強いのだ。

従って、彼らの反省は、通り一遍のものに終始し、自己の本質に迫れず、やがて、時の流れが痛みを中和して、又候(またぞろ)、蜜の香りに誘(いざな)われていくという負の人生循環に嵌るのである。 

蠱惑(こわく)的な対象が惹きつける快楽が、頓挫による反省的学習を常に少しずつ、しかし確実に上回るから、彼らは「失敗のリピーター」であることを止めないのだ。

小さな失敗なら歯牙にかけないものが、重大な失敗になると、それを全否定することによって失うものがあまりに大きすぎる場合、人は失敗をストレートに認知することをしばしば逡巡する。

そこに、いかに無駄な時間が費消されたかということに眼を瞑り、「失敗の過去にも学ぶべき点が多かった」などという「認知不協和」(矛盾解消のために、自分に都合よく合理化すること)の心理学に流れ込んで、失敗の本質に肉薄する一切の合理的文脈を、丸ごとオブラートに包み込んでしまうのだ。

だから、件の者たちは自己を根源的に相対化し、再構築していくという「複合学習」の艱難(かんなん)な心理プロセスに容易に踏み込めないのである。

どうやら、私たちはこうして、「自己正当化の圧力」を再生産していく負の構造から解放されないようだ。



2  「善悪」が同一の人格のうちに同居する、特化された映像提示の安直さ ―― ライアン警官の「クラッシュ」



本作の場合で考えてみよう。
 
クリスティンに対する、ライアン警官のセクハラの根源には、「アファーマティブ・アクション(注1)によって、自分の家族の生活の基盤と絆が壊され、その挙句、「父を介護する息子」という自己像を形成してしまった心理が深々と根を張っている。

物語では、既にセクハラ行為の前に、尿道炎を病んでいる父の件で、病院とのトラブルが発生したエピソードを挿入させていた。

電話の相手が黒人の女性ケースワーカーであることを知ったライアン、差別的言辞を吐き、一方的に電話を切られるに至ったエピソードである。

「あんたみたい女に、有能な白人の男たちが職を奪われてるんだ。親父が不憫だ。清掃員として働いた金で会社を始めた。23人の従業員は全員黒人で、平等に給料を払ってた。30年間、彼らと一緒にゴミを運んでいたんだ。だが、少数民族の雇用主を優先する法律ができて、一夜にして全てを失った。会社も家も妻も。だが、恨み事は言わない。あんたたちの利益のために全てを失った男に、ほんの少し手心を加えてくれるだけでいい」

これは、セクハラ直後のライアンの言葉だ。

アファーマティブ・アクションによって全てを失ったと決めつける意識が膨張し、それが黒人に対する差別意識を分娩させた結果、自らのセクハラ行為正当化させるに至ったのである。

 
(人生論的映画評論・続/クラッシュ ('04)  ポール・ハギス <「自己正当化の圧力」と「複合学習」の困難さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/04/04.html