実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)('07) 若松孝二 <『実録』の名の下で希釈化され、削られた描写が照射した『事件』の闇の深層>

イメージ 1 「実録」と銘打った物語の後半のクライマックスである、「あさま山荘」を描いた一連のシークエンスから掘り起こしたい。

 あまりに著名な事件だから詳細な説明は省くが、そこに5人の「革命戦士」がこもっていたことは、当時を知る者には鮮明な記憶をなお残しているだろう。

 ただその山荘の中の「革命戦士」たちの動向について知る者は、当事者以外にはいないはずだ。その当事者が後に執筆した資料もあるが、ここでは映像のラインのみでフォローしていきたい。

 「今日、板東は作戦中に、配給以外の食料を食べた。これは、この銃による殲滅戦において、極めて重大な軍規違反である。自己批判を求める」

 初めての国家権力との「殲滅戦」の緊張感の中で、吉野雅邦は坂東國男の「盗み食い」を批判し、その総括を求めた。

 「いや、作戦行動では一定程度の自主性は容認されている。それが重大な結果を招くものでない限りは作戦中の食料補給は個々の自由に任せるべきだ」と板東。
 「俺たちは革命的規律を求めて、同志たちに総括を要求したのではなかったのか。あんたが食べたクッキーこそ反革命の象徴なんだよ!」
 「今、戦時中だ。敵と戦っているんだ!やっと本物の敵と戦っているんだよ!バカバカしい。クッキーに革命も反革命もあるか」
 「何だと!あんた、それで同志に顔向けできるのか!自己批判しろ!自己批判しろ!」

 そう叫ぶや、吉野は板東に銃を向けた。

 「何のためにここまで来たんだ!銃は権力に向けろ!」

 ここでの指揮官である坂口は、吉野の構えた銃口を塞ぎ、振り返って板東に自己批判を求めた。

 険悪な空気を感受した板東は、短い沈黙の後、自己批判の言葉を結んだ。

 「任務中につまみ食いをしたこと自己批判します。これからは革命的規律を守り、団結を固くし、殲滅戦を最後まで戦い抜きます」

 その後、3人の幹部は人質の管理人夫人に、警察の側に付かず、彼らの立場に付かず、中立を守ることのみを求めた。

 「警察と戦うって、どういうことですか?」と夫人。
 「革命を起こすんです」と板東。
 「革命ですか?」との反問に、「この日本社会を根本から作り変えるんです」と板東。
 「あなただって、日本がこのままで良いとは思わないでしょ?」と吉野。

 まもなく「殲滅戦」の最後の戦場と化す部屋に、厳冬の朝の外光が差し込んで来た。

 戦士として自らを立ち上げて行く5人の若者が、静かに最後の食事に向かおうとしていた。

 「同志たちにも食べさせてやりたかったな」と板東。殲滅戦を前に、手に持ったおにぎりを見つめて一言。
 「流れたあいつらの血を受け継ぐのが俺たちの戦いだ。俺たちの借りは死んだ同志たちにある。この借りを返すには…」と坂口。
 「落とし前をつけよう」と吉野。

 その瞬間だった。

 言葉を結ぶことのなかった16歳の少年が、突然、叫んだのだ。

 「何、言ってるんだよ!今更、落とし前が付けられるのかよ!」

 空気を劈(つんざ)くような叫びに、他の者の視線が注がれた。
 
 「俺たち皆、勇気がなかったんだよ!俺も!あなたも!あなたも!坂口さん!あんたも!勇気がなかったんだよ!勇気がなかったんだよ!勇気がなかったんだよ!」

 最初に板東が、次に吉野が、そして最後に坂口が、少年の涙の糾弾を受け、そこに何の反応もできずに少年を見据える連合赤軍の幹部がいた。

 その直後に、轟音(ごうおん)と共に開かれた、最初にして最後となった「殲滅戦」。

 そして彼らが開いた10日間に及ぶ「殲滅戦」が、予約されたかの如き国家権力による突入作戦によって、次々に捕捉される5人の戦士たち。

 映像がそのあと映し出したのは、浅間山の眩い白を借景に、廃屋と化した戦場の黒に刻まれた、国家権力の武装の実態であった。

 以下の通り。

 「動員された警察官・機動隊員 1635名。
  死亡者 機動隊員2名・民間人1名。
  負傷者 27名。
  警察が使用した火器類 催涙ガス弾3126発。発煙筒326発。ゴム弾96発。現示球――照明弾の
  一種――83発。放水量15・85トン」


 そして、映像のラストシーン。

 森恒夫の表情が大きく映し出されている。

 「1年前の今日、なんと暗かったことか。この1年間の自己をふりかえると、とめどなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます。方向はわかりました。今ぼくに必要なのは、真の勇気のみです。はじめての革命的試練。――跳躍のための  森恒夫

 ここでエンディングクレジットが表示され、映像が閉じていった。

 「勇気がなかった」

 この一言が、言いたいがための映画だった。正直、唖然とした。

 本作を事件の総括と括って構築したはずの作り手の映像世界の逢着点が、果たして、この一言の内に収斂されるほど事件は単純なものであったのか。

 「愛」、「平和」などという言葉と同様に、「勇気がなかった」という使い勝手のいい言葉の持つ「決定力」は、今や、そこに手垢が付くまでに凡俗化し、そこに込められた肉感的な内実を剝落させてしまっているだろう。

 どのような困難な事態にでも自在に使用できるというその一点において、まさにその言葉の空洞感の不毛さが露わにされてもなお、このような観念に逢着点を見出す以外にない本作の流れ方は、一切をシンプルな倫理学に委ねる安直さと一線を画す何ものも存在しないと言っていい。

 事件の闇の本質の人間学的な読解に達し得ないが故の、その人間学的な把握に関わる驚くほどの底の浅さ、甘さ、音痴ぶりを印象付けるあまりにアバウトな逢着点 ―― そこにこそ、この事件の直接的な関与者と、後に事件そのものを解釈しようとする者たちが露呈した理念系の暴走が、垣間見えてしまう危うさが伏在すると思えるのだ。

 
 
(人生論的映画評論/実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)('07) 若松孝二 <『実録』の名の下で希釈化され、削られた描写が照射した『事件』の闇の深層>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/06/07.html