ニーチェの馬(‘11)  タル・ベーラ  <内側で緩やかに、しかし確実に、〈死〉に向かって匍匐している負の鼓動の実感>

イメージ 1「(長回しは)私の映画の言語です。俳優が逃げることができずに状況の囚人となるのです。(略)こういう長回しの映像を見ている観客はストーリーを追うのではなく、空間、時間、人間の存在を追い、それをすべて集約してその場で起きていることを感じる。そういうアプローチをすることによって、人間はより近づけると思うのです」(同上)

これも、タル・ベーラ監督の言葉。

「日常性」を繋いで生きている人々の生活様態を写し取る手法として、長回しの技法は効果的であるだろう。

唯一の収入源である、荷馬車仕事を終えて帰宅する男の「日常性」を、延々と続く長回しで捕捉するファーストシーンのインパクトは、充分に本作の基幹ラインを表現していた。
 
一貫して物語を占有する、暗欝な短調のシンプルな基調音がBGMとなって、砂埃が立ち、烈風が吹きすさぶ、視界不良の貧寒の大地を、左手一本で荷馬車を操作する初老の男が、5分近い長回しのカメラの多角的なアングルに捕捉されつつ、荒涼たる風景と同化しているが、が戻るべき場所に近づいて、今度は荷馬車を歩行しながら引っ張っていく。

 男を迎えたのは、烈風で髪が逆立つ若い女

の娘である。

 の娘は、馬具を外して、馬を既定の厩舎に入れた後、父娘が協力して、馬車を倉庫に入れる。

 その後、簡素な家屋に入った父娘は、いつもの日常を淡々と、要領よくこなしていく。

 右手が不自由な父の衣服を、てきぱきと着替えさせる娘。

 粗末なベッドに仰向けに横たわる父。

その間、全く会話がない。

娘は、じゃがいも2個を、それ以外に入っていない食糧箱から抜き取り、茹でていく。
 
じゃがいもが茹で上がるまで、ずっと窓外に視線を凝らしている。

茹で上がったじゃがいもを、それぞれの皿に盛り、娘は父に、「食事よ」と一言。

初めての台詞が、少ないカットの長回しの中で放たれたのである。

この間、20分。

渺茫(びょうぼう)として際涯なき大地に吹きすさぶ、烈風の轟音だけが記録される映像は、殆どドキュメンタリーの様式を纏(まと)っている錯誤に駆られる。

右手が不自由な父親は、左手のみで、器用にじゃがいもの皮を向き、テーブルに用意された塩をふりかけて、黙々と食べていく。

逸早く食べ終わった父親は、娘と交代するように、窓外に視線を凝らしている。

昨日もそうであったような「日常性」がリピートされた後、闇の中の床で、僅かに拾われた父娘の会話。

「木食い虫が静かだ。58年間、聞こえた続けた音がピタリと止んだ」
「本当におとなしいわ。どうしてかしら、父さん」
「分らん」

「娘は天井を、父は窓を見つめている。瓦が落ちて、地面で砕け散る音が、時折、耳に届く。暴風が唸りを上げ、容赦なく吹き荒れている」(ナレーション)

一日目が、こうして閉じていった。

―― 二日目のこと。

今日もまた、早起きした娘は、烈風の轟(とどろ)く中を掻い潜り、家屋の前の井戸から水を汲んで戻って来る。

起床した父の衣服を着替えさせる娘。

着替えが終わると、アルコール度数が40度以上あると言われる、パーリンカハンガリー産の蒸留酒)を一口飲む父親。

父娘は厩舎から馬を連れ出し、仕事の準備をするが、肝心の馬が動かず、馬の世話をする娘の懇願もあって、結局、この日は荷馬車を断念する

再び、家屋に戻った父娘は、普段着に着替えるしかなかった。
 
 
(人生論的映画評論・続/ニーチェの馬(‘11)  タル・ベーラ  <内側で緩やかに、しかし確実に、〈死〉に向かって匍匐している負の鼓動の実感>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/03/11.html