ミッドナイト・イン・パリ(‘11)  ウディ・アレン <「パリ万歳」というチープな感覚を超えて、タイムトリップのゲームをファンタスティックに描いた傑作>

イメージ 11  価値観の違いを顕在化させる、世俗的な現実主義と懐古主義の乖離感



次々と、美しく切り取られたパリの情景が、3分間に及んで映し出された後、ライトアップされた夜のエッフェル塔の絵柄に結ばれて、オープニング・クレジットが表示されていく。

それと同時に、拾われる男女の会話。

「本当に信じられないよ。世界一の都、パリに来ているなんて!」
「何度も来てるじゃない」
「でも、年中じゃないからね。うっとりするほど美しい雨のパリ。1920年代を想像してみてよ。芸術家たちが雨のパリで・・・」
「何で、いちいち雨なの?濡れるだけじゃない」
「僕たち結婚したら、パリに住もうよ」
「あり得ない。アメリカ以外に住むなんて」
「もし、パリに住んで小説が書けたら、マンネリ映画の脚本ともオサラバ」

会話の主は、仕事で訪れただけで、共和党右派を支持する、フランス嫌いの義父夫妻の出張に乗じて、パリ観光する脚本家のギルと、その婚約者のイネズ。

既に、この会話の中に、ギルとイネズの価値観の相違が顕在化されていた。

小説家への一大転身を図るべく、「ノスタルジー・ショップで働いている男」の話を書いている脚本家のギルにとって、パリの街は、そこに居るだけでノスタルジーを感受させる特別な小宇宙であるのに対して、社交的で現実主義者のイネズには、「雨のパリ」という形容そのものがナンセンスなのである。
 
この二人の価値観の違いが、明瞭に際立たせるシーンがあった。

クロード・モネの「睡蓮」の連作で有名な、セーヌ川に面して建つオランジュリー美術館でのこと。

ソルボンヌ大学のレクチャーを依頼され、渡仏していた友人のポールと再会したイネズは、ギル流の懐古主義を批判するポールの博識に憧憬の念を抱いているに対して彼のペダンチックな物言いに反発するギル、ポールのミニレクチャーに悉(ことごと)く異議を唱えていくシーンである。

ピカソのマデリーヌの肖像画(「水浴の女」)の前で、訳知り顔に批評するポールの傍らで、ギルは確信犯的に反論を述べていく。

「待って。この作品だけは違う」
「ギル、聞いていれば、何か学べるわ」とイネズ。

端(はな)からギルの教養を疑っているイネズの一言が、いよいよギルの感情を尖らせた。

「僕の記憶が正しければ、これはフランス娘、アドリアナを描いた失敗作だ。彼女は確かボルドー出身で、舞台衣装を学ぶためにパリに出て来た。浮名を流した相手は、モディリアーニとブラック。パブロの愛人でもあった。この絵には、彼女の繊細な美が表現されていない。すごい美女なのに」

この時点で、既に1920年代のパリ(注)にタイムスリップしていたギルは、ピカソの愛人となっていたアドリアナが、肖像画のモデルとなっている「事実」を目の当りにしていたので、周囲を驚かすような反論を提示した訳だ。

「クスリでもやってるの?」とイネズ。

今まで見たことがないのか、感情丸出しのギルの態度に驚くイネズには、こんな反応しかできないのだ。

彼女には、ソルボンヌ大学のレクチャーを依頼されたといいう、ポールの「学術的実績」の方が、正鵠(せいこく)を射た批評を提示しているとしか思えないのである。

「傑作どころか、駄作だ。パブロの小市民的な理解。彼女へのね。ベッドで性欲を爆発させる本性に眼が眩んだ」
 
ギルは、その一言を捨てて、オランジュリー美術館を足早に立ち去って行った。

パリを観光の対象としか見ないイネズの世俗的な現実主義と、本気でパリに住もうとさえ考えるギルの懐古主義の乖離感には、「生き方」に関わる価値観の違いが露わになっていた。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ミッドナイト・イン・パリ(‘11)  ウディ・アレン <「パリ万歳」というチープな感覚を超えて、タイムトリップのゲームをファンタスティックに描いた傑作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/03/11_2507.html