終の信託(‘12)  周防正行 <根源的な問題の全てを、医師たちに丸投げする無責任さを打ち抜く傑作>

イメージ 1序  根源的な問題の全てを、医師たちに丸投げする無責任さを打ち抜く傑作



素晴らしい映像だった。

ラスト45分におけるヒロインの叫びには、震えが走るほどだった。

それは、そこに至るまでの殆ど無駄のない伏線的描写を回収していく、周防監督らしい知的な構築的映像の成就であると言っていい。

後述するが、正直、私にとって不満な描写もあったが、しかし本作は、そんな不満を払拭させるに足るだけの力強い映像になっていて、私は高い評価を惜しまない。

何より、とかく偏見視されやすい喘息患者の身体的苦痛と悶絶の極みを、覚悟を括った者のように描き切ったこと。


そして、尊厳死を求める重篤な喘息患者が、物語のような極限的状況に置かれたときの医師たちの困難な状況を、見事な心理描写によって問題提示したこと。

これが大きかった。

尊厳死に関わる重大なテーマが、今や看過し難い状況になっているにも拘らず、それについての国民的議論を積み重ねていく努力を回避しているように見えるマスメディアと、相変わらず、「厄介」な問題との対峙から逃避している、この国の立法機関等の怠慢によって、物語で描かれたような由々しき状況に追い込まれたときの、決して少なくない医師たちに、根源的な問題の全てを丸投げしてしまう無責任な空気が、この国に蔓延している状況の是非を問題提示したことの意味は、それだけで充分に価値がある。

良心的な医療関係者を孤立させてはならないのだ。
 
日本尊厳死協会の会員でありながら、自分には殆ど無意味でしかない、リビング・ウィルをとうに済ましている私にとって、この映画は、「一人一人、ここで映像提示された問題を考えていかねばならない」という監督のメッセージが聞こえてきそうで、それを受容する思いで一杯である。
 
 
 
1  エリート女医の人物造形のうちに凝縮される物語の流れ



この映画は、草刈民代演じる、東大卒で初めての女性部長になった呼吸器内科の医師・折井綾乃の人物造形が全てであると言っていい。
 
本来なら不必要なはずの、同僚医師・高井との不倫の愛の破局によって、自殺未遂に至る顛末に関わる一連のシークエンスは、まさに、綾乃の人物造形の典型的な側面を描くものとして切り取られたエピソードであると考えられる。
 
「止めて。苦しい。息ができない。助けて。・・・もう、終わりにして」

これは、病院内で不倫した綾乃が、同じ病院内で睡眠薬自殺未遂して、手当を受けているときの叫び。

しかし、この叫びは届かない。

綾乃の意識の中の言語であるからだ。

この「届かない叫び」は、時間軸を現在にした検察庁での、「呼び出し状による公務としての取り調べ」の際の、彼女の真情吐露の伏線となっているが故に、高井との不倫の愛の顛末の映像提示となっていることが判然とする。

「お前、どうすんだ?こんなみっともないことして」

これは、綾乃の病室を訪ねた高井の言辞。
 
「俺、結婚するなんて言ったっけ?」と言い放った高井との、不倫の愛の破局が契機になった綾乃の自殺未遂の発火点は、まさに、この醜悪な言辞に求められるが、それは同時に、こんな男に下半身の処理をされる役割しか果たしていない女の、ある種の身持ちの悪さを検証するものだった。

このエピソード挿入は、そこから開かれた重篤な喘息患者である江木との、プラトニックな濃密な絡みへの反転の心理的推進力になったばかりか、自殺未遂を惹起させるほどの脆弱性を表現する上で不可避なシークエンスであった。

 即ち、検察庁からの呼び出しから始まる、この映画のヒロインである、47歳の綾乃という人物の、自己に深く関わる特定的な対象人物に対する「のめり込み」の様態 ―― これが、呼吸器内科のエリート医師・綾乃の極めて特徴的な人物造形として、一貫して映像提示されていたのである。

 常識的に考えれば、重篤な喘息患者である江木との、プラトニックな濃密な絡みは、「共依存」の関係への傾斜を厳として戒められている、「医師」と「患者」という、「越えられない壁」を倫理的規範として策定している医療文化のフィールドの中にあって、タブー視されている現実であるだろう。

然るに、その「見えないルール」の縛りを呆気ないほどに越えていく、二人の人間関係の構築性の高みを具現していく内的行程には、人間的に最も信頼する医師の綾乃に対して「終の信託」を委ねる喘息患者と、その「終の信託」を引き受けていく複雑な心理の振れ具合が、特化されたエピソードの累加の中で表現されていいて、全ては、この二人の心情交流の一連のシークエンスに至るまでに張られた伏線と解釈すべきである。

 

稿を変えて、エリート女医の人物造形のうちに凝縮される物語の流れを押さえておきたい。

 
 
2  レクイエムと同義なる子守唄、そして「終の信託
 
 
 
自分の恋の成就のために父を脅す歌である、プッチーニのオペラ(「ジャンニ・スキッキ」の中の「私のお父さん」)のCDを、重篤な喘息で入退院を繰り返していた患者、江木から受け取り、それを聴いて嗚咽する綾乃。

既に、病院内で知れ渡っていた綾乃の自殺未遂。

それによって、綾乃が病院を去ることに憂慮する患者たちの一人が江木だった。

「あなたには真剣な行為だったかも知れないけど、他人から見たら、ばかばかしい喜劇にしか過ぎません。そう言われた気がしました」

CDを貸してもらった時の、綾乃の反応である。
 
「あなたは、自分に正直に生きている。人生を誠実に生きている。だから、良い先生なんです。先生が羨ましい。僕は人生で、一度も恋に溺れたことなんてなかった」

江木の反応も率直だった。

だから、関係が深化していく。

「本当は喜劇である」というCDを借りた縁もあって、心痛を深めたことで、相応に自己を相対化できた綾乃が、まもなく、自我の内深くに抱えるトラウマを江木から吐露されるに至り、二人の関係は、主に、「江木のプライバシーを熱心に聴く女医」という立地点にまで昇華されていくのである。

江木が抱えるトラウマとは、5歳のとき、満州時代に経験した妹の死に関わるものだった。

終戦の年にソ連軍の侵入によって、流れ弾で妹が死んだ際に、母が子守唄を歌ってあげた記憶が鮮明に残っていると打ち明けるのだ。

そして、自分の臨終の際にも、その子守唄を歌ってくれと、綾乃に頼んだのである。

子守唄を歌うことで、死を看取って欲しいという江木の懇願を、綾乃は引き受ける。

以下、記憶の再構成を経て自我の深層に澱んでいたであろう、死の概念の獲得も不十分な幼児期のトラウマについての、江木の心情吐露。
 
「人間が死ぬとき、まずダメになるのは視覚だそうですね。最後まで残るのは聴覚だそうです。そうなんですか?ものが言えなくなっても、見えなくなっても、声だけは聞こえているとか、父も母もそんなことは知らなかったと思います。ただどうしようもなくて、子守唄を歌い続けた。それは多分、妹にしてやれる最高のことだったと、今になって思うんです。自分がそうなったとき、そのとき、できたら、僕の意識が完全になくなるまで、先生、言葉をかけていただけないでしょうか。できたら、意識がなくなっても、人から見て意識がなくなっても、本人は、まだ意識があるんじゃないかと、それが心配なんです。そのときが一番怖くて、助けが欲しいんじゃないかと・・・思うんです」

咳き込みながら、江木は、ゆっくりと、自らが最も不安視している思いを言葉に表した。

「私で良かったら、声を掛けさせていただきます。お話をします。何か江木さんの好きなことを」

そこに、「間」ができた。

「子守唄を歌って欲しいんです」と江木。
「分りました。覚えます」と綾乃。
 
終の信託である。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/終の信託(‘12)  周防正行 <根源的な問題の全てを、医師たちに丸投げする無責任さを打ち抜く傑作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/05/12_18.html