ピアニスト('01) ミヒャエル・ハネケ<「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる破壊力>

イメージ 11  「父権」を行使する母との「権力関係」の中で



母の夢であったコンサートピアニストになるという、それ以外にない目的の故に形成された、実質的に「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、異性関係どころか、同性との関係構築さえも許容されなかった事態に象徴されるように、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた娘のエリカは、ポルノショップと覗き趣味に象徴される、「男性性」の世俗文化とのクロスを介して、男根を喪失した「形だけの女」(注)という自己像(「女性である自己」の現実に対する嫌悪感)のうちに閉じこもることで、殆ど男性的な性格を身に付けた結果、既に、観念的にはマゾヒズムの世界への自己投入によってしか安寧し得ない自我を構築してきてしまった。

母の夢の具現の前では、「父」という、本来の役割を遂行し得ないエリカの父親は精神疾患を患い、まもなく、映像に登場することなく逝去するに至るが、中年女性になっても、「父権」を行使する母との「権力関係」だけは延長されていたのである。

それは、ファーストシーンでのローキーな画像の中で、観る者に直截に提示されていた。

「ママ、疲れているの」

帰宅が遅れた娘の、いかにも疲弊し切った言葉である。

「そうだね。レッスンが終わったのは、3時間前。それまで何やってたの?」
「やめて」
「答えるまで、部屋に入れないよ!」
「散歩よ。8時間も教えっぱなし。息抜きがしたいわ」

強引に娘のバッグを開けて、預金通帳を見て、金額が減っているのを確認し、文句を言うばかりの母。

「一体、何に使ったの?」
「クソババア!」

そう叫んで、母の髪を掴む娘。

それが、娘のマキシマムな抵抗手段だった。

母親の支配に従属する娘の生活の現実が、そこに提示されていた。


(注)バスルームでの剃刀のシーンの意味は、母との「権力関係」の中で、人間的感情(とりわけ、「女」を意識する感情)を否定され続けたことに象徴される心理的要因によって、長く無月経状態になっていて、それでも、「形だけの女」を演じ続けねばならない強迫観念が、このような行為に及んだとも考えられるが、明らかに、ここにもエリカの自罰傾向の片鱗が読み取れるであろう。



2  「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきたものが揺らぎ出したとき



それでも、ウィーン国立音楽院のピアノ科教授でもあるエリカが、まさにその商品価値性によって、予想だにしない快楽を手に入れる対象人格と出会ったのである。
それがワルターだった。

音楽院の大学院に入学した学生である。

以下、エリカの演奏会直後の、二人の会話。

精神疾患直前の晩年のシューマンについて論じた、アドルノの「幻想小曲集」(8曲から成るシューマンピアノ曲集)論を例にとって、ヒロインのエリカはワルターにレクチャーする。

「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」
「見事な教授法です。まるで全てをご存じかのようだ」
シューベルトシューマンなら。それで、私の父は精神疾患で入院しているの」

まもなく、若くハンサムなワルターに関心を持ったエリカが、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれるワルターの前で、自我の奥深くに隠し込んだ本性を吐露していくのだ。

エリカが書いた、信じ難き内容の手紙を読むワルターの言葉が、嫌々ながらそれを代弁していく。

「一番の望みは、“手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい。但し、ドア越しで母が近づけないこと。翌日まで、母のことは気にしないで、この家の全ての鍵を持ち去り、一つも残さぬこと”これをやると、僕に得が?“もし私があなたの命令に逆らったら、ゲンコツで私の顔を殴って。なぜ母親に逆らったり、やり返さないか聞いて。そして、私にこう言って。自分の無能さが分ったかと”」

自分の手紙をここまで読んだワルターに、エリカはSMの道具を見せて、更に言葉を添えていく。

「電話を待つわ。全てあなた次第。嫌いになった?長年の望みだったの。そこにあなたが・・・命令するのはあなた。着る服も決めてあるわ」

返す言葉を失ったワルターが、重い口を開いた。

「病気だよ。治療しなくちゃ」
 
そんな反応を受けても、エリカの思いは変わらない。

「殴りたいなら殴って」
「手を汚したくない・・・心から愛していた。今は嫌悪感だけ」

そう言い捨てて、ワルターは帰宅して行った。

「好きにしなさい。大人なのだから。これが全てを捧げた結果・・・大したご褒美だよ」

これは、このアブノーマルな顛末を知って驚く母の言葉だ。

言うまでもなく、エリカのマゾヒズムの世界への自己投入は、「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた彼女にとって、それ以外にない自我防衛機制であり、今や自罰によってしか安寧に辿り着けない、屈折した自我の表現様態だったが、一切は、その本来の役割を果たせない父に代わって、「父権」を行使し続けてきた母との歪んだ「権力関係」の産物だったと言っていい。

エリカの被虐性欲の根柢に横臥(おうが)するのは、コンサートピアニストになれないことで母を悲嘆に陥れた自己への加虐心理であるが故に、ワルターから「病気だよ。治療しなくちゃ」と言われても、「殴りたいなら殴って」と反応するばかりだったのだ。

それが、“手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい”という、ワルターへの文面の本質である。

そのことは、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきたエリカの自我に張り付く、母からの承認欲求の屈折した様態であると言えるだろう。

だからこそ、ワルターへの手紙によって、彼から「今は嫌悪感だけ」と帰宅され、その顛末をを母に知られ、詰(なじ)られても、「ママ、愛してるわ」と言って、抱きついていくばかりだったのだ。

「狂ってるよ」

母の言葉だ。
それでも、二人で縺(もつ)れ合い、抱き合って、号泣する娘がそこにいた。

しかし、彼女の母に対する承認欲求もまた、初めて知った青年との身体感覚のリアリティの前で微妙な誤作動を見せていく。

母と縺れ合い、抱き合って、就眠に入ろうとしたそのとき、彼女は突然、母親の上に覆い被さっていくのである。

それは、エリカの中で累加されてきた屈折した感情が、封印し得ない性衝動となって溢れ出たのだろう。

彼女には、向かっていく対象人格が母以外に存在しないこと。

そこに、彼女の悲哀の極みがあると言っていい。

更に言えば、彼女の中の観念的なマゾヒズムは、それまでのような継続力を持ち得なくなってきたのだ。

ワルターの出現によって、支配し、服従するだけの「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきたものが、エリカの中で揺らぎ出したのである。
生まれて初めて経験したであろう異性感情の嫉妬心から、教え子のオーディションの日、彼女の衣服のポケットにガラスの破片を忍び込ませて、ピアニストにとって命とも言える手を傷つける行為に象徴されるように、ワルターへの愛し方を知る術を持たないエリカは、それでも青年との愛を欲する感情を身体表現するには、手紙での告白を自己否定する以外になかったのだ。

アイスホッケーのゲーム後、ワルターを訪ねたエリカは、手紙での告白について謝罪し、自分に対する彼の愛を占有しようとした。

しかし、スケートリンクの控室でノーマルなセックスに及ぼうとする、若いワルターのオーラルセックスの欲求に応えられず、吐き戻すばかりのエリカ。

セックスに関わる彼女の欲求は、結局、ポルノショップ等を介した情報でしかなく、彼女自身、身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ないのだ。

被虐を求めるワルターへの手紙での、エリカの欲望の表現は、単に、彼女の閉鎖系の観念の世界が噴き上げたものでしかなかったということである。

「咥(くわ)えて吐かれた」

またしても、相手の欲求を満足させ得ないストレスから罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐かれて、追い返されるエリカは、「あなたが望むなら何でもするわ」という思いを吐露する以外になかったのである。
明らかに、このときワルターは、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」であったと信じたエリカの〈性〉の本質を見透かしてしまったのである。

「この女は、〈性〉について無知なだけの中年ピアニスト」でしかない現実を。
 
 
 
 
(人生論的映画評論/ピアニスト('01) ミヒャエル・ハネケ<「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる破壊力>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html