タイム・オブ・ザ・ウルフ(‘03) ミヒャエル・ハネケ <ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する究極の一作>

イメージ 11  ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する究極の一作



「ピアニスト」より先に製作予定だった、この「タイム・オブ・ザ・ウルフ」という作品は、一言で説明できないほど、凄いとしか言いようのない映像である。

これほどの映像が、一般的に観られていない現実に、正直、驚きを禁じ得ない。

特に、ダークサイドに彩られた物語のくすんだ風景の枠組みの総体を、根柢から反転させてしまう寓話的なラストシークエンスの凄みは、紛れもなく、ミヒャエル・ハネケ監督が、ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する鮮烈なインパクトがあって、私にとって、絶対忘れられない究極の一作と言っていい何かだった。

出色の映像が居並ぶハネケ監督の表現世界の中で、涙が止まらなかった唯一の作品である。

こういう映像と出会うために、私は懲りることなく、多くの映画を鑑賞しているのだなと、今更ながら実感する次第である。

他の追随を許さないハネケ監督の、その人間洞察力の非凡さに圧倒されて、殆どお手上げだった。

筆舌に尽しがたいほど素晴らしい作品だったからだ。

「監督が描きたかったのは、滅びゆく世界と、そこで生まれ変わる世界を映像化することだったと思う」

これは、本作に主演したイザベル・ユペールの言葉。

母親と二人の子供が三人で力を合わせ、社会の大きな変わり目となる難局を経験するという物語でしょ。いかにして、彼らがこの状況に反応するのか。この作品では、ある意味、個人という立場が喪失してしまう。心の葛藤が起きたり、日常生活で感じることを、経験するような余裕がなくなってしまう。考えてみれば、安楽な生活感が持てなくなる。悲しいとか、幸せだとか、空腹だ、のどが渇いたとか、眠いとか・・・。生き残った者は、西洋の消費社会での生活から、飢えた人々が生きるこの惑星の現実へと追い込まれていく。まさに生存競争の社会です」(「タイム・オブ・ザ・ウルフ」のDVの特典映像から
 
イザベル・ユペールの言うように、本作で描かれていたのは、「滅びゆく世界と、そこで生まれ変わる世界」の映像化であって、どれほどネガティブな世界観を吹聴しても、本音では、私たちが空想としか考えず、イメージの範疇を逸脱しない「世界の終末」が忍び寄る、漆黒の闇の中のアナーキーな弱肉強食の醜悪さの様態である

「パニック映画を撮る気はなかった。人間同士の行動に関する、とても私的な考えを描こうとした。とくに現代は、ニュースで世界の破壊が映し出されるような時代だ。だが、それは他人が住む遠い世界の出来事。だからこそ、居心地のよい世界で、終末を見ている社会に対し、この作品を提示したかった。もしこれが、あなたの家庭に起こったらどうするのかと問う作品です」

「タイム・オブ・ザ・ウルフ」のDVの特典映像での、ミヒャエル・ハネケ監督インタビューの言葉である。

私は、すべての作品において“ヒューマニスト”になろうと努力しています。芸術に真剣に立ち向かおうとするならば、そうするしかない。それが必要不可欠な最低条件です。ヒューマニズムなき芸術は存在しません。それどころが、芸術家の最も深遠なる存在理由です。意思の疎通こそ人間的で、それを拒むのはテロリストであり、暴力を生むのです」
 
これも、ハネケ監督の言葉。

因みに、ヒューマニズムとは、人間の様々な事象に深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することによって、限りなく発展的に自己運動を繋いでいくこと。

 私の定義である。

ともあれ、ヒューマニズムを拒むのはテロリストであると言い切るハネケ監督の言辞は、誤解されやすい彼の映画を偏見なく観れば、説得力を持つことが瞭然とするだろう。


 例えば、「ファニーゲーム」(1997年製作)では、家宅侵入して来た二人の若者の理不尽な暴力の空白の時間の中で、既に、一人息子を銃殺された夫婦が、その衝撃を言葉に表現できないまま、重苦しい静止画像のような時間を繋ぎ、その後、お互いに協力し合って必死に助けあう姿が丹念に描かれていた。

また、「ピアニスト」(2001年製作)では、母子一体の歪んだ教育を受けてきたヒロインが、屈折的自我を露わにした状態で、「異性愛」という未知のゾーンに自己投入した挙句、些か尖り切っていたが、模倣すべき愛の範型イメージを手に入れられずに煩悶する、極めて人間的な姿が描かれていた。
 
 
これらは、娯楽映画の範疇の「自在特権」を活かして、リアリティの欠落した暴力描写をゲームの如く量産し、且つ、「奇跡的試練」を経て、予定調和のラインに沿って結ばれていくような、浮薄なメロドラマを供給することを止めない、ハリウッドムービーへの明瞭なアンチテーゼとして立ち上げられていた。

このことは、自らが拠って立つ、映画作家レーゾンデートルを表白する挑発的なメッセージでもあったが、しかし、そこで描かれていた物語の風景に隠し込まれた作り手の思いには、紛れもなく、ヒューマニズムの息吹が感じられる何かが読み取れた。

ただ、それらが挑発的な構成力を成す作品であったことで、ハリウッドムービーに馴致し過ぎた観客たちを不快にさせただけである。

「居心地のよい世界で、終末を見ている社会に対し、この作品を提示したかった」と言い切って構築した、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)という稀有な芸術作品においては、ハリウッドのパロディは影を潜めて、ハネケ監督自身が、恐らく最も作りたいと考えたに違いない、「極限状況下に置かれた人間たちの在りよう」という問題意識によって、彼の作品の中では珍しいとも思える、「ヒューマニズムほぼ全開」の映像を構築したのである。
 
これは、2年後に発表される「隠された記憶」(2005年製作)と対を成す作品である。

監督自身の問題意識の核心には「先進国文明に無批判的に浸かっている人々へのアンチテーゼ」が映像提示されることで、これらもまた、いつものように、観る者との知的営為を「共有」することを切望する作り手特有の作品に仕上がっていた。

とりわけ、自分の能力の範疇では全く及ばない〈状況〉に捕捉され、その厄介な〈状況〉の破壊力によって追い詰められていったとき、人間はそれまで隠し込んでいたエゴイズムを露呈させるだろう。

人間は脆弱なのである。

極限状況下にあって、「今日、食べるパン」がない現実を認知すれば、どのような「善」なる人間でも、自らが捕捉された危機の打開に動くことしか考えず、周囲の〈状況〉に対して「感覚鈍磨」させることで、自我のサイズを限りなくミニマム化してしまうのだ。

だからこそ、普通の能力の範疇に収まる私たちを、人間の統治能力が及ばないアナーキーな〈状況〉に追い込んではならないということ。

そこでは、エゴによる暴力が常態化し、まさに弱肉強食の世界が顕在化されるだろう。

以下、本作で描かれたエピソードを特定的に拾いあげて、稿を変えて物語をフォローしていこう。


2  無法ゾーンでの「強い者勝ち」の世界の凄惨さ
 
 
 
父母と姉弟の構成による一家族が、冒頭から、一家の大黒柱を喪失するシーンが挿入され、ハネケ監督の映像に馴致していない観客は、ここで、「とんでもない映画」と遭遇してしまったというインパクトを受けるだろう。


何某かの事情で、食糧不足に陥った果ての飢餓状態が、先進国(フランス)の一画で惹起しているらしいことは、物語をフォローしていけば分明になるが、この時点では、単に別荘を占拠した強盗犯による家族の悲劇という印象しか持ち得ない。
 
食料を貯め込んで、田舎の別荘にやって来た家族の中で、肝心要の父親が、「問答無用」の理不尽な手法で射殺されてしまうのだ。

全ては、ここから開かれていく。

夫であり、父である人物を喪った3人の母子たちは、仕方なく、藁小屋のような粗末な家屋で寝起きする。

この間、母親のアンナが、最寄りの警察に立ち寄って事件を訴えても、「ここに来たのは間違いだ」などと言われて、帰される始末。

夜が明けて、別荘から持って来た自転車の荷台に息子のベンを乗せて、当て所(あてど)なく、まるで、世紀末のくすんだ風景の中を彷徨う母子3人。

ようやく辿り着いた一件の藁小屋。

思春期の只中にある娘のエヴァの焚火の不始末が原因で、その藁小屋をも失った家族。

不幸が連鎖する。

焚火の事故の際に出来した、息子のベンの失踪に翻弄され、母と姉が大声を挙げてベンを探すが、中々見つからない。

そんなベンが、一人の少年に引率されて戻って来た。

少年の名は、最後まで不明である。

しかし、この少年の存在が母子3人の家庭、とりわけ、エヴァからの好奇心を呼び寄せ、そこに一つの淡い思春期の物語が作られるが、無論、一片の感傷も拾えない。
 
線路沿いを進む4人。

最後まで、「救済」をイメージさせる「命を運ぶ列車」が、束の間、4人の前を通過すれども、必死に同乗を願う彼らを置き去りにしていく。

 
火を起こすためのライターが目的で随伴して来た少年は、遺体から奪った古い外套をエヴァに与えて去っていこうとするが、少年の傷ついた手を治療してくれた思いも手伝ってか、数家族の難民が住み着いていた駅舎に同行する。
 
その小さな集団に合流する母子3人。

盗みの常習犯である少年だけは、ルールに縛られることを極端に嫌って、エヴァからの督促があっても、孤独な生活を貫くばかり。

 少年もまた、「命を運ぶ列車」の出現に淡い期待を賭けているから、駅舎の近くにホームレスと化して住み着くのだ。

 線路に停留している貨車を本線に移せば、列車が止まると説くリーダー格の男の合理的な説明に対して、無駄な労力を払う作業であると反駁する者もいて、既に、この小さな集団の中でも、ルールを決定できない現実が露わにされていく。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/タイム・オブ・ザ・ウルフ(‘03) ミヒャエル・ハネケ  <ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する究極の一作> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/07/03.html