トゥルーマン・ショー('98)  ピーター・ウィアー <コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力>

イメージ 11  コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力



「他の番組を。テレビガイドは?」

ラストカットにおける視聴者の、この言葉の中に収斂される文脈こそ、この映画の全てである。

テレビ好きな二人の警備員によるこの台詞は、本作がテレビの虚構性を極限まで描き切った映画であることへの、それ以外にない決定的な括りとなるものだったからである。

テレビとは、特定他者を消費する視聴者に、最大限の視聴のサービスを提供する絶好の快楽装置である。

本作は、特定他者を消費する視聴者の貪欲なニーズに対して、それ以上ない商品を提供した。

「“トゥルーマンが愛飲するニカラグアのココア”17億の人間が誕生を見守りました。“スター誕生”220カ国が最初の一歩を放映。ハイテクの進歩で、隠しカメラが彼の日常を記録し続け、そのまま生で全世界に、毎日24時間、1日も休まず放送されています。世界最大のスタジオに作られたシーへブン島のセット。万里の長城に匹敵する建造物が島を覆っています。30年目を迎えた超人気番組!“トゥルーマン・ショー”!」

ナレーションの役割を持つ、この放送の説明で分るように、要するに本作は、出生以来、その人生の全てを24時間撮影され続けている、一人の平凡なセールスマンの物語なのである。
彼は、テレビの人気番組である「トゥルーマン・ショー」の「スター」として監視され続けて、昨日もそうであったような何の変哲もない日常を露わにしていくが、妻も母も親友も、彼が出会う町の通行人もまた役者でありながら、哀しいことに、自分の人生を生きているつもりの当の本人だけが、その決定的な事実を知らないのだ。

トゥルーマン・ショー」の「スター」として監視され続けているが故に、彼は決して死ぬことはない。

完璧に管理された生活ゾーンで呼吸を繋ぐ男の物語は、その男の一挙手一投足をフォローしていく番組視聴者の一喜一憂を掻き立てるが故に、多少の冒険譚が挿入されていた方が商品価値が上がるのだ。

だから、ある出来事を契機にして、自分の〈状況〉の不自然さに気付き始めた辺りからの、彼の振舞いの変容に、番組視聴者は固唾を呑んで見守っていくのである。

まさに、特定他者を消費する視聴者の日常的生態が、その本質を露わにしていくのだ。

以上、簡潔に言及してきたが、このように、現実的に有り得ない設定をする物語の構造は、本質的にコメディラインで網羅する以外にないだろう。
設定の非リアリズム性が、物語を極限的にカリカチュアライズし、視聴のサービスを提供する絶好の快楽装置としてのテレビは、それを消費する視聴者の愉悦の媒体と化していく。

然るに、最初からリアリズムで勝負することを回避した映像が、観る者に与えた心地悪さは本質的にコメディラインの範疇を越えている。

だから、本作に対する評価が、明瞭に二分されてしまうのは当然のこと。

それは、物語で描かれた「面白さ」を愉悦できない人たちが、物語の視聴者の感情ラインと完全に切れていることを必ずしも意味しないだろう。

「私的自己意識」(常に自分の感情の有りようを意識すること)が強い自我ほど、却って本作に不快感を覚えて止まないとも言える。

自分の中にあって、自分がどこかで認めている感情ラインと同質のものを、物語の視聴者たちのそれと重ね合わせてしまうとき、そこで投影された自己像に不快感を覚えるのは当然だろう。
そのような、ある種の「挑発性」を含む映像を、本作は観る者に突き付けてきたのだ。



2  「視聴者を視認する者」=「投影された自己像を認知する者」としての観客性



この映画のエッセンスは、保険会社の平凡なセールスマンであるトゥルーマンが、死んだはずの父と再会するシーンに象徴されている。

「やはり生きてた」とトゥルーマン
「息子よ。この歳月の償いは必ず補う」と父。
「パパ」とトゥルーマン。嗚咽している。

それを観る視聴者も嗚咽している。

視聴者は、「父子」の感動の再開に釘付けなのだ。

なぜなら、トゥルーマンの父は、トゥルーマンの少年期に、我が子の眼の前でヨットから落ちて、海で溺死してしまったはずなのである。

ところが、トゥルーマンは、浮浪者姿の父と、町で偶然遭遇して驚愕する。

父を追い続けたが、周囲の者の邪魔が入って、連れ去られてしまうというエピソードの挿入があったが、この一件も、当然「生放送」されていて、視聴者の関心を一気に高めるに至る。

邪魔をした者たちも、全て俳優。

相変わらず、トゥルーマンだけが事実を知らない。

しかし、この偶発的な一件によって、トゥルーマンの中で、少しずつ、町の者たちと自分の関係の不自然さに疑問を抱くようになっていく。

そんな中での、「父子」の感動の再開譚が開かれたのである。

無論、テレビ局の「ヤラセ」である。
 
その総責任者の名は、クリストフ。

トゥルーマンの誕生から30年間、彼の全生活を追い駆け、それをテレビで流し続けているディレクターである。

そのクリストフが、「父子」の感動の再開譚を演出するのだ。

「霧を抑えろ。クレーンカメラ、スタート。8カメ、もっと引け。カメラを引き、音楽をアップ。よし、クローズアップ」

「父子」の感動の再開を作り出して、成功裡に番組を終えたクリストフは安堵感を覚えた。

「見事だ!感動で涙が出た!」

そのクリストフを激励する、テレビ局のバラエティー局長(?)。

そして何より、この再開譚に釘付けとなる視聴者こそ、特定他者を消費することを愉悦する、私たち視聴者の感情ラインと重なるものである。

そこに、大いなる不快感を抱く者も多いだろう。
 
しかしそれが、紛れもなく、自分の分身であることを認知せざることを得なくなったとき、その不快感は映像総体への不快感を随伴するのか。

そこまで自己を相対化し切る、「視聴者を視認する者」=「投影された自己像を認知する者」としての観客が、果たしてどれほどいるだろうか。

寧ろ、物語の視聴者の存在を他人事のように考えている人たちもまた、決して少なくないのではないか。

繰り返すが、特定他者を消費することを愉悦する視聴者の欺瞞性を、本作の作り手は突き付けてきたのだ。

それが、ラストカットの決定力の凄味だったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/トゥルーマン・ショー('98)  ピーター・ウィアー <コメディラインの範疇を越える心地悪さ ―― ラストカットの決定力>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/03/98.html