1 「語り過ぎない映画」の残像感覚の凄み
一度観たら一生忘れない映画というのが、稀にある。
映画の残像が脳裏に焼きついて離れないのだ。
それらの映画の特色は、「語り過ぎない映画」であるということ。
語り過ぎないから、観る者に想像力を働かせる。
思考の余地を保証してくれるのである。
私は、「語り過ぎない映画」を最も好む。
主に、父と娘の二人だけしか出てこないのに、会話も殆ど拾えない。
「世界の終末」に立ち会っているはずなのに、いや、だからこそと言うべきか、感情の大きな振幅もないのだ。
この映像は、一生忘れられないだろう。
そして、「ニーチェの馬」と同様に、「世界の終末」をテーマにした、ハネケ監督の「タイム・オブ・ウルフ」(2003年製作)は、「世界の終末の顛末」という、巷間で普通に関心を寄せるような「肝心なこと」が何も語られていないのだ。
その凄さに圧倒された。
「タイム・オブ・ウルフ」に至っては、ハネケ作品の中で、唯一、涙を流した映画である。
あまりの感動に震えが止まらなかった。
全く退屈することはない。
却って緊張感が走って、エンドロールに至るまで、映像に釘づけになる。
だから、こういう映画は、繰り返し観ることになる。
それが、私の映画鑑賞のスタイルである。
あまりに語り過ぎるハリウッド系映画全盛の時代にあって、こういう映画と出会うことの僥倖を期待して、今はできる限り作品を選んで観ている。
そして、本作の「ピクニックatハンギング・ロック」。
これは、昔、観たときの残像がずっと張り付いていて、気になって仕方がなかった作品の一つであった。
この度、WOWOWで再鑑賞して、驚嘆した。
想像以上の出来栄えの凄さに圧倒されたのである。
ピーター・ウィアー監督は、本作の中で、観る者の好奇心を誘う、最も肝心な辺り(「事件」、或いは「事故」の真相)を最後まで映像提示することなく、自己完結させたのである。
これほどの凄みのある映画が、40年近く前に作られたこと自体、驚きに値すると同時に、感謝の気持ちで一杯でもある。
肝心なことを何も語らなかったことによって、私を存分に考えさせてくれたからである。
「語り過ぎない映画」の残像感覚の凄み。
これが、本作を貫徹していて、私によって、何ものにも代えがたい、等価交換不能な「宝物」になっている。
2 時空の歪みに嵌ったような、〈生〉と〈死〉のゾーンの視界が捕捉できない内的風景
平穏であるから、特段に何も起こらない。
閉鎖系空間であるが、窒息感がないから、退屈さを感じさせる女子寄宿学校の日常性に、生命の再生産を自給するような活力を与えるには、非日常の濃度の高い解放系の時間が必要だった。
まさに、これが、女子寄宿学校の日常性に挿入された、非日常の濃度の高い解放系の時間だった。
100万年前に隆起してできたと言われる岩山は、人を寄せ付けないような荘厳で、険しい相貌性を身にまとっているが故に、その未知のゾーンに魅せられたように踏み込んでいく、思春期後期に呼吸を繋ぐ少女たちにとって、いつかそこを通らなければならないイニシエーションの臭気の吸引力でもあった。
ゴツゴツした岩場の尖り切った自然が放つ男性的な相貌性は、白いレースのドレスを身にまとう少女たちの、眩いまでの清潔感を漂わせるエロティシズムを際立たせていた。
憑かれたように、岩山に吸い込まれていく少女たちの躍動する情動の氾濫は、まさに、このような特別な時間の中でしか解放し切れない妖しさを秘めているが故に、時として、自分の着地点を性急に求める精神と、成熟を急ぐ身体が、それを待つ非合理の、抑制の利かないゾーンの中枢に呑み込まれることで、一気に炸裂する。
スキルの強固な補完なしに、完全解放系にギアシフトした自我が、時空の歪みに嵌ったような、ラインの曖昧な世界で漂流することによって、いつしか、自己の拠って立つ中枢への拘泥感が希薄になり、〈生〉と〈死〉のゾーンの視界が捕捉できない内的風景を露わにするだろう。
思春期後期に呼吸を繋ぐ自我が、イニシエーションの臭気の強力な吸引力に手繰り寄せられていくのだ。
「魔」のゾーンに搦(から)め捕られてしまったのである。
―― 以下、簡単な梗概。
1900年2月、バレンタイン・デー。
オーストラリアの女子寄宿制学校・アップルヤード・カレッジの生徒たちが、馬車に乗って岩山にピクニックに出かけたが、ポワテール教師の許可を得て、「岩山調査」の名目で、4人がハンギングロックに登っていった。
リーダー格のブロンドの美少女・ミランダを筆頭に、アーマ、マリオン、イディスの4人である。
登り始めるや、イディスは音を上げるが、他の3名は振り向くことなく、高所へと移り進んでいく。
そして、辿り着いた岩山の裂け目。
3名が「消失」した地点である。
擦り傷だらけで、慌てて下山して来たイディスの報告で、まもなく、警察等の捜索隊が岩山に向かうが、発見するに至らなかった。
実は、「消失」したのは、3名の女子生徒ばかりか、初老のマクロウ教師も含まれていたが、下山途中で見たイディスによると、ズロース姿だったと言う。
俄(にわ)かに「事件性」が疑われ、責任の重さを問われたアップルヤード校長は、事態の重大性に適切に対応できず、女子寄宿制学校は混沌の惨状を呈する。
(人生論的映画評論・続/ピクニックatハンギング・ロック(‘75) ピーター・ウィアー <浮遊感覚で侵入してしまう人間が遭遇する「異界」の破壊力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/07/at75.html