天然コケッコー('07) 山下敦弘 <「リアル」を仮構した「半身お伽話の映画」>

イメージ 1 1  「思春期爆発」に流れない、「思春期氾濫」の「小さな騒ぎ」の物語



 島根県の分校を舞台にした、天然キャラのヒロインの、純朴で心優しきキャラクターを、観る者に決定付けた重要なシーンがある。

 天然キャラのヒロインの名は、右田そよ(以下、そよ)。

 中学2年生である。


 そよと、同学年のイケメンの転校生、大沢広海(以下、広海)を含む全校生徒7人が、海水浴へ行ったときのこと。

 眩い陽光を被浴する海水浴で存分に愉悦した後、その帰路、広海(ひろみ)が近道を行こうとした際、ヒロインのそよも同行しようとした。

 しかし、最年少の小2のさっちゃん(早知子)が排尿を訴えた。

 そのとき、広海との同行を優先するあまり、そよはさっちゃんのアピールを我がままとみたのか、自分の小さなエゴを通してしまった。

 このとき彼女は、一陣の風のように吹いてきた「都会」の芳しい臭気に誘われて、古き良き「田舎」の文化を捨てたのである。

同時にそれは、規範的な伝統文化の中で果たしてきた彼女の役割、即ち、「幼い子供の世話をする姉」としての保護者意識を捨てて、「思春期氾濫」の「小さな騒ぎ」の中で揺れる、「性」を意識する「自己」の欲求を選択的に優先したことを意味するだろう。

 しかし、彼女は悔いることになる。

 自分の小さなエゴを通した結果、さっちゃんが膀胱炎になったからだ。

 「さっちゃん、痛がっとろうか。さぞかし、泣いとろんじゃろうな。自分が恥ずかしゅうていられん」

 これが、彼女の、そのときのモノローグ。

 当然、尿意があるのにトイレを我慢すると急性膀胱炎になりやすいという知識を持ち得ない彼女の責任は、その心理の振幅を考慮しても限定的であることは明瞭だ。

 それでも、彼女は自分を責めるのだ。

 そこに、規範的な伝統文化の影響力の大きさを見ることは可能である。

 ともあれ、このモノローグによって、観る者は、「心優しきヒロイン」としての、そよの「人格像」に決定的な感情移入を果たすだろう。

 映像前半で固めた、このキャラクターイメージが、本作の成功を約束したと言っていい。
観る者は、このヒロインのモノローグによって、少なくとも本作が、「大人vs子供」という構図のラインで物語を動かす映画でないことを知るのだ。

 それは、「思春期爆発」に至ることのない、物語のソフトランディングをも予約させたのである。



 2  「思春期彷徨」の通過儀礼の一つのステージが終焉を遂げて



 更にヒロインの、以下のエピソードも、「田舎で出会いたい少女No1」(Yahooユーザーレビュー)という評価をグレードアップさせたであろう。

 東京への修学旅行先で、広海の友人が廃校祝いに受け取った(このシーンは些か乱暴)「校舎の瓦礫」を、「ジョーク」と考えて捨てたとき、そよはそれを大事そうに拾って、自分の旅行バックに収めておいたのだ。

 彼女には、「人の善意」を無にしてはならないという「絶対規範」がある。

 そんな彼女だから、田舎にいる年下の生徒や学童たちのことを配慮し、彼らへの土産を真剣に考えるのである。

 「土産、土産って、せっかく東京来てるのに、結局、田舎のことばっかじゃない」

 これは、広海の歯に衣着せぬ物言い。

 「田舎のことが好きだと分っただけでも、勉強になったのう」

 これは、中学校の担任教師である松田先生の、「教育的配慮」によるフォロー。

 望んで東京に修学旅行に来ても、地元の友人のことばかり気にかけるヒロインの、面目躍如たるキャラ全開のエピソードである。

 「山と一緒じゃ」

 新宿副都心にある都庁舎の、地上48階ビルを見て、呟くそよ。

 両耳に手を当て、耳を澄ませて、穏やかな「田舎」の自然の音を聴くのだ。

 「あんたらぁとは、いつか、仲良うやれる日も来るかも知らん」
 
 ヒロインのそよは、「都会」の無機質の風景を、「田舎」の自然の風景に変換させる能力を持つのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/天然コケッコー('07) 山下敦弘 <「リアル」を仮構した「半身お伽話の映画」>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/05/07.html