櫻の園(‘90) 中原俊 <「年中行事」を「通過儀礼」に変換させた物語の眩い輝き>

イメージ 1 1  「年中行事」を「通過儀礼」に変換させた物語の眩い輝き ―― その1



地方都市にある私立櫻華学園高校演劇部では、創立記念日チェーホフの「櫻の園」を上演することが、桜咲く陽春の日の伝統的な「年中行事」となっていて、多くの不特定他者の観劇を吸収するビッグイベントだった。

彼女たち演劇部員にとって、毎年、特定の時期に催される「年中行事」であった「櫻の園」の舞台は、同時に、思春期後期で通過せねばならない重要な節目でもあった。

 それは、演劇部員の「通過儀礼」であると言い換えられるだろう。

その「通過儀礼」を突破することで、「ほんの少し別の状態」の相貌を持つ「何者か」になるのである。

この「年中行事」と「通過儀礼」の対峙の風景の活写こそ、本作の基本骨格を成していると、私は考える。

櫻の園」の上演が「通過儀礼」としての含みを持つ、演劇部員の個人的な例を挙げれば、演劇部長の志水由布子のエピソードのうちに集約されていたと言っていい。

敢えて、この日に合わせて、パーマをかけた髪で登校して来た行為それ自身が、大袈裟に言えば、彼女の自己像変換への意思を身体化させていたからである。
 
即ち、「しっかり者」という固定化されたイメージを、「周囲の圧力にめげるまで、このまま」という強い意識の下、自らの身体性に僅かながらも視覚的変化を加える行為を介して、「ほんの少し別の状態」の相貌を持つ「何者か」に変換するモチーフが含まれていたのである。

彼女自身の誕生日でもあったその日を、「特別の日」と考えたに違いない由布子にとって、「ハレ」の日における大胆な身体加工のパフォーマンスは、数多の観劇者の前で上演される、とっておきのステージの時間の総体を、自己史の次なるステップに何某かの意味を付与する「通過儀礼」と考えていない限り説明できない心理である。

それは、ところてん式に短大に進学する既定のコースを確信的に捨てて、一人の友人もいない4年制大学(?)への進路を選択しようとする彼女の強い意思の表れであることを想起するとき、彼女のパーマヘアによる身体表現には、表層的に括れば、「通過儀礼」を突き抜けんとする思春期自我の微々たる氾濫でしかないが、しかし、視覚的効果の鮮烈なる炸裂であった事実を否定する何ものでもなかったと言える。
 
然るに、由布子のような思春期自我の炸裂にまで至らず、この日の「櫻の園」の上演をあっさりとスルーし、できれば〈状況〉から逃避したいと念じる演劇部員もいた。

倉田知世子である。

背が高いため男役専門であった知世子にとって、「櫻の園」のヒロインであるラネフスカヤ役を演じるという役割の重さは、何にも増して苦痛以外の何ものでもなかった。

知世子は、男役として馴致してきた自己像を壊す行為に震えるばかりか、男役の根拠となった自らの背の高さに劣等感を持つ始末だった。

倉田知世子のナイーブな自我が負った苛酷な「通過儀礼」 ―― それが、「櫻の園」の舞台の重量感だったのだ。

それでも、苛酷な「通過儀礼」を突破せんとする努力を繋ぐ知世子の性格の真面目さは、誰もいない校内の廊下で、必死に台詞を暗誦する行為に集中的に表現されていた。

いっその事、中止になって欲しいと願うネガティブな感情と、この苛酷な「通過儀礼」を突破せねば、より一層、自分が惨めになるというポジティブな想念が共存しつつも、彼女の自我の懐ろ深くに、誰かの心理的サポートを懇望する心情が張り付いていた。

そして、その心理的サポートの対象人格は、彼女の中で特定化されていた。

知世子が密かに憧れる志水由布子である。

由布子には、自分の中にないからこそ、特段に自分が欲する意志の強さがあった。

由布子に対する知世子のその思いが、ある種の「同性指向」に大きく振れていく。
 
 
由布子にとっても、自分の中にない、知世子のナイーブな性向に惹かれるものがあったのだろう。

二人は、ツーショットの写真のうちに収まることで、心情を深々と交歓する。

「私、倉田さんのこと好き。だめ?」と由布子。
「ううん、だめじゃない」と知世子。
「倉田さん好きよ」
「うん」
「大好き」
「うれしい、もっと言って」
「好きよ。大好き。本当よ」
「うん」

 これは、最初の一枚を撮り終った後の会話。

心情のセンチメントな交歓の愉悦の中で、二人はカメラに繰り返し近づきながら、手動式のスイッチを押し続けていく。
 
この会話の一部始終を、「喫煙事件」の張本人である杉山紀子が教室内から見聞きし、由布子への自分の心情が「片思い」だったことを確認するカットが添えられていた。
 
これは、概ね女子高限定の、微妙な女生徒たちの「同性指向」が、例えば由布子のケースで言えば、あと1年もすれば、風景が変わることで、「異性指向」のうちに自然に振れていく心理プロセスの一端を切り取ったものに過ぎないだろう。

だから、取り立てて問題にするような描写ではないのである。

寧ろこのシーンは、このような「同性指向」と「異性指向」が共存する少女たちの、複層的に絡み合った裸形の内的風景以外の何ものでもないと解釈すべきである。

 但し、これだけは押さえておく必要がある。

知世子に思いを告げる由布子の心理には、上演直前の極度の緊張感で前に進めなくなっているように見える彼女への、演劇部長としての責任意識が全く介在していなかったとは言えないという点である

 その意味で何より重要なのは、知世子が負った苛酷な「通過儀礼」の重石を、天然系の「しっかり者」とも思しき由布子の、「同性指向」の率直で自発的且つ、柔和なアウトリーチが相当程度軽減するに至ったという事実である。

 かくて、「櫻の園」の舞台で主要な役割を担うナイーブな思春期中期の自我のうちに、苛酷な「通過儀礼」を突破せんとする心理的構えが形成されるに至ったのである。
 
その心理的構えは、苛酷な「通過儀礼」という恐怖への精神的な余力の分娩にも通じる、心理学で言うところの「認知的構え」の形成にも大いに寄与したであろう。


このエピソードは、それほどに重要な、天然系の「しっかり者」の本領発揮の由布子からの、「同性指向」の濃密な柔和なアウトリーチだったのだ。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/櫻の園(‘90) 中原俊   <「年中行事」を「通過儀礼」に変換させた物語の眩い輝き> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/09/90.html