17歳のカルテ(‘99) ジェームズ・マンゴールド<「骨のない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語>

イメージ 11  「骨ない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語 ―― その1



 これは、良くも悪くも、「嘘だらけの外の世界」世俗世界)の劣悪な環境に流され、浮遊していただけの思春期後期の時間の一部を切り取って、それを「モラトリアム期間」にしたことで、「人生の実感的リアリティ」の肝に関わる、「境界性パーソナリティ障害」と呼称される自我の不安定な内部危機を、「嘘だらけの外の世界」で「生きるのを選ぶ」と言い切るまでに自浄させ、乗り越えていく一人のヒロインの物語である。

その「嘘だらけの外の世界」世俗世界)の方がマシだと相対化し得るほどに、思春期後期の時間の一部を「モラトリアム期間」にした「異界のゾーン」とは、回想風の自伝「思春期病棟の少女たち」原作者が「パラレル・ユニバース」(隣にある別世界)と呼ぶ精神療養施設の女子思春期病棟。

このパラレル・ユニバース」を通過することによって、そこで実感的に経験した人生の厳しい現実が、思春期後期という難しい時期を、当て所なく漂流していたヒロインの脆弱な自我の、いみじくも格好な「学習教材」と化し、自らを相対化し得ていくのである。

そこはまさに、精神療養施設(クレイモア病院)のカウンセラーウィック医師が言う、「自分の弱点をどうするか」という「人生の岐路」に直面する少女の、反面教師となるに相応しい「学校」だった。

なぜ、ヒロインのスザンナが、反面教師となるに相応しい「学校」を必要としたのか。

これについては後述するが、ここでは、スザンナアスピリン1瓶とウォッカ1本を飲み干して、救急病院に搬送された際に、救急医に吐露した印象深い言葉に注目したい。

「手を調べて。骨がないから・・・同じ場所に居続けることが、時々、辛くて・・・」

更に、彼女は、クレイモア病院を紹介した、父の友人の医師とも、同様の会話をしている。

「骨ない手で、どうやって薬を飲む?」
そのときは骨が戻る・・・時々、時間が乱れて、遡ったり進んだり、ごちゃごちゃになって制御不能に・・・私には自分の気分が分らない」
 
その理由を問われても、答えられないスザンナがそこにいる。

「骨ない手」とは、身体と心が乖離することで生まれる、「人生の実感的リアリティ」を手に入れられない者の浮遊感覚であると言っていい。

これは、クレイモア病院への入所後のポッツ医師とのカウンセリングで、「君はいつも悲しい」と言われた後、自殺未遂の行為を問われたとき、「消そうとしたの」と答えたスザンナの内面世界にも通底するだろう。

確かに、スザンナ吐露した言葉の中に、本人自身も制御不能で、不安定な自我の浮遊感覚を読み取ることは容易であるが、ただ、その辺りの心的状況は、E.H.エリクソンが「ライフサイクルの8段階」で指摘した、「アイデンティティ(同調的性向)」対「混乱(非同調的性向)」という、思春期後期の発達課題のアポリアによって説明できなくもない。

 要するに、この心理文脈は、「自分の居場所は、この世界のどこにあるのか?」という、人生の根源的テーマから回避し得ない極めてナイーブな時期に、世間体のみを気にする両親、とりわけ、「母のようにはなりたくない」とまで言わしめるレベルの、自我の確立運動を開いてしまった青春(大学に進まず、「作家」を目指すという言辞)の、少々荷の重い通過儀礼」に対して、十全に対峙し、突き抜けていく精神的余力を持ち得ない者の魂の喘ぎでもあると考えられなくもないのだ。

然るに、精神療養施設に入所することは、「私には自分の気分が分らない」という思春期後期の少女に対して、入所するに値する「病名」をつけねばならないのである。
 
同時に、その事実は、イタリアの精神科医療改革の立役者、フランコ バザーリアが言うところの、「ひとりの狂人が精神病院に入ると、彼は狂人ではなくなり、病人になるのです」という風に「役割呼称」に変換された結果、その「役割呼称」を演じていくことを意味するだろう。

「役割呼称」変換は、「役割呼称」で結ばれる人間関係のうちに、「医師・看護師」vs病人」という「権力関係」が発生した事実を意味すると言っていい。
 
現在、イタリアには精神病患者が220万人いるとされるが、急性の患者のみ精神科に収容し、基本的に家族の世話が中心となる。と言うより、精神衛生センターという地域コミュニティ的な役割が重視されている。
 
しかし、このシステムが、イタリア全土で整備されていないのが現実であり、精神科医を治安の責務から解放するという、フーコー流の解放運動(「狂気の歴史」、「監獄の誕生」)の理想の気高さと、それに反発する南部を中心に残る守旧派勢力との確執の現状をも知っておく必要があるだろう。

いっそのこと、日本でも、この革命的な理想主義を具現して見れば、異なった風景が垣間見られるかも知れないとも思うが、「患者」を家族に戻される事態を怖れる本音が露呈して、呆気なく破綻するイメージだけが、私の中で鮮明になっている。とにかく、何でもやってみれば判然とするだろう。




2  「骨ない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語 ―― その2




こからは、梗概を追っていきながら、批評を結んでいきたい。

 私には自分の気分が分らない」と吐露する情緒不安定な状態で、クレイモア病院の女子思春期病棟に入所して来たスザンナは、その特化されたスポットで、様々な病を抱えた少女たちと出会い、容易に馴致できにくい空気を感受する。

 不要でも睡眠薬の強制服薬があり、更に、入院したての頃は、各部屋には頻繁に巡回が入ることで、精神療養施設の「権力関係」の実情を目の当りにするスザンナ。

 「なぜ、自分がここにいるのか」

 そんな思いを抱くスザンナには、自殺未遂の明瞭な自覚がないだけに、一層、両親を含む周囲の大人に対する不信感を募らせるばかりだった。
 
更に、ジョージーナという名の「空想虚言症」の柔な子と同室になったのも束の間、精神療養施設の「権力関係」の中で形成した、女子思春期病棟の「病人」たちとの間に、もう一つの「権力関係」を仕切るリサが、逃亡先から2週間ぶりに捕捉され、「終の住処」の如き思春期病棟に「帰還」する現場をスザンナが視認するや、そのリサから恫喝されたのも入院初日の出来事だった。

しかし、父の友人である大学教授と不倫意識もなく関係を結ぶほどに、対人関係の不手際なスザンナが、女子思春期病棟の「病人」たちとの接触を通して、少しずつ馴致していく契機になったのも、一人だけ目立った存在を誇示するリサとの会話が開かれていったことが大きいだろう。

どこか常に、「観察者」として日記をつける習慣を持つスザンナにとって、堂々と本音を吐き出すリサの態度に惹かれていくようだった。

人は自分の中にないが故に、それを持つ対象人格に振れていきやすい傾向があるが、この二人の関係には、表層面で動きやすいティーンエイジャーの人間洞察力の脆弱性が垣間見られていたように見える。

そんなリサが主導した、「真夜中のパーティー」と銘打った確信犯的な逸脱行為で、ポッツ医師の診察室に忍び込み、自分のカルテを相互に盗み見るのだ。

境界性人格障害。自己像 関係 気分の不安定。目標不明確 衝動的。自傷行為 カジュアル・セックス。反社会性と悲観的態度が顕著である」

これが、両親との面談の際に、聞き慣れない病名を知っていたスザンナのカルテの内実。

カジュアル・セックスとは、「気楽にセックスする」ということ。

因みに、「リサ・ロウ」のカルテの内実は、「感情の起伏 激化。患者関係 支配。服薬の効果なし。症状の緩和 見られず。反社会病質」というもの。
 
「反社会病質」という記述が気になるが、これは既に、リサの人格障害が、犯罪を起こしやすい傾向があるとされる「反社会性人格障害」の危うさを常態化しているということか。

以下、稿を変えて、現在、「境界性パーソナリティ障害」と和約される病質について言及したい。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ 17歳のカルテ(‘99) ジェームズ・マンゴールド<「骨のない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/10/99.html