サイドカーに犬('07)  根岸吉太郎 <「距離」についての映像 ―― 或いは、成就した「役割設定映画」>

イメージ 11  釣り堀で



不動産会社に勤務する近藤薫は、若いアベックに高層マンションの一室を案内するが、不調に終わり、バルコニーの窓を閉めたとき、ふぅっという溜息を洩らした。

このファーストシーンの何気ないカットの内に、30歳になって真面目に仕事する彼女の性格が映し出されていた。同時に、営業ウーマンとして自立的に生きる彼女が抱えるストレスの重量感も感受されるだろう。

弟、透の結婚式の件で、久しぶりに会った姉弟は、家族の再会の話に話題を振っていかざるをえなかった。姉弟の両親は既に離婚していて、弟を引き取った父と、姉を引き取った母との折り合いは当然悪く、その辺の苦労を弟は姉に漏らしたのである。

その際、結婚式の招待状を受け取った姉の意思を確認することなく、弟が勝手に「御出席」に丸をしてある葉書きを見て、当惑を隠せない姉。その辺りに、二分した家族の問題に集約される近接した外部環境に対して、努めて協調して生きてきた姉の薫の性格が反映されていた。

会社勤務のストレスから、1週間の有給休暇をとった薫は、自宅近所の馴染みの釣り堀で留守番を頼まれた。

そこに一人の少女が餌のつけてもらいにやって来たので、彼女は優しく反応した。

「一緒にやろう。自分でつけた方が、魚もたくさん釣れるよ」

この言葉の内に、彼女の協調的な性格の芯を支える自立的なメンタリティが読み取れるのである。

映像のこの導入は目立たないが、一人の若い女性のキャラクターの骨格と、そこから開かれるストーリーラインの伏線を敷いた描写として重要なものとなっていた。

釣り堀で、少女と共に餌をつける薫は、その少女が小4であることを知って、「自転車乗れる?」と聞いた。

「うん」と少女。
「幾つのときに乗れるようになった?」と薫。
「年長」
「凄いね。私が乗れるようになったのは、今のあなたの歳」

笑いながらそう答えた薫は、このとき、自分が小4だったときの、刺激的な夏の日々を思い出していた。



2  出会い



『20年前の刺激的な夏は、母の家出で幕を開けた』

このナレーションから、ストーリーラインの中枢が開かれていった。

『家出する前の日、母は念入りに家の中を掃除した』

10歳の薫の一学期の成績表を見た母は、国語の成績が上がったことを褒めた。

既にこのとき、家出を覚悟していた母の不満の原因は、勝手に会社を辞めて、収入の当てのない中古車販売業を始めた夫との不仲にあった。

「あんた、無理に結婚しなくてもいいからね。その代り、手に職をつけなさい」

これが娘に対する母の置き土産の言葉だったが、娘は母の家出を正確に認知できていなかった。

父がそれについて何も語らず、母の代わりに夕食を作る一人の若い女性が出現したからである。
 
7月の終わり頃、ドロップハンドルのサイクリング車に乗って、長髪をなびかせながら軽快な気分を漂わせた一人の若い女性。

それがヨーコだった。

「オス。て言うか、初めましてかな、やっぱ」

左手を高く掲げて、ヨーコは薫の前に現れるや否や、キッチンで煙草を吸い始めた。

「そんなに驚かないでいいよ。ご飯作りに来ただけだから。」

全く見ず知らずのヨーコの出現に驚くばかりの薫は、男勝りでずけずけと話す、このようなタイプの大人と初めて出会った戸惑いもあって、当然の如く、反応の術を知らなかった。

「買い物行くから付き合ってくれる?」

そう言って、ヨーコは薫を誘い、さっさと階下に下りて行って、サイクリング車のキーを外していた。

傍には、まだ言葉を返せないが、ヨーコの自転車を興味深く見つめる薫がいた。

ヨーコがサドルを盗まれた話をしたとき、未だ乗れない自分の自転車を見せながら、薫はヨーコに問いかけた。

「サドルだけ盗られて、どうしたの?」
「隣に置いてあった自転車のサドルを盗んで、取り付けて帰った」

自分の盗みの一件をあっけらかんと答えたヨーコは、そのまま薫を連れてスーパーに直行した。

カレーの材料をどんどんカートに放り込み、薫が食べたいと言った麦チョコを何袋もいっぺんに買ってしまう大胆さに、薫は眼を見張りながらも、その表情から笑みが零れていた。

買い物から帰って来た二人は、そこで仕事から車で帰宅した父と顔を合わせた。

遊びから帰って来た弟の透は、ヨーコを見るなり、「誰?」と父に尋ねた。

「新しいお母さんだ・・・冗談だよ。本気にする奴があるか。今日から晩ご飯作ってくれるらしいから」

子供たちへのヨーコの紹介は、それだけだった。

ヨーコは洗い終わったカレーの皿に麦チョコを入れて、「ほれ、餌だ」と、まるでドッグフードのように子供たちに渡した。

「お母さん見たら怒るよね」

恐らく何事にも厳しい躾をして来た母を思い浮かべて、薫は弟に一言漏らした。

この日、日本産のコンピュータゲームであるパックマンを父が持ち帰って来て、立ち所に、弟の格好の遊び道具になっていった。
こうして夏休みになって間もない頃、唐突に闖入(ちんにゅう)してきたヨーコとの出会いが開かれていった。

そして、喜怒哀楽をあまり表情に表わさない少女に、恐らく今までにない情感的経験が生まれて、いつもと違う夏休みの一日が閉じていった。
 
 
 
(人生論的映画評論/サイドカーに犬('07)  根岸吉太郎 <「距離」についての映像 ―― 或いは、成就した「役割設定映画」>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/09/07_20.html