白いリボン('09)  ミヒャエル・ハネケ <洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動のチェーン現象を繋いでいく、歪んだ「負のスパイラル」>

イメージ 1序  忘れ難き一級の名画と出会ったときの情感の残像が騒いで



こんな映画を観たいと切望して止まない映画と出会ったときの興奮と感動が、鑑賞後、何日経っても自分の脳裡に焼き付いていて離れない。

ここで提示された問題の多くは、人間の本質に関わる厄介なものばかりで、私が尊敬するイングマール・ベルイマンの映像と知的に格闘しているときの情感の残像が煩く騒いでしまって、少なくとも私にとって、それは決して心地悪い体験ではなかった。

しかし、独自の映像宇宙を構築したベルイマン映像に比べると、問題の掘り下げが浅いように印象づけられたのは事実。

それは、本作が「ミステリーの群像劇」という枠組みに縛られているために、澱のように見えない辺りにまでじわじわと肉薄し、問題の根源を剔抉(てっけつ)していくという技巧の方略が有効性を持たなかったからに違いない。

分りやすいハリウッド映画全盛下にあって、ミステリーのシネマディクトをも集客する商業戦略と睦み合うことなしに、今や、一本の名画が不朽の価値となる時代の到来と無縁になってしまっているのだろう。
 
それでも、ミヒャエル・ハネケ監督(画像)が構築した映像の凄みは、一貫して妥協を拒む冷厳なリアリズムと、曖昧さの中でも重要な伏線を張り、その多くを回収していった心理学的且つ、論理的構成力の完成度の高さにおいて、最後まで微塵の揺るぎもなかった。

既に私にとって、この映画は忘れ難き一級の名画となった所以である。



1  「純真無垢」の記号が「抑圧」の記号に反転するとき



物語の梗概を、時系列に沿って書いておこう。

1913年の夏。

北ドイツの長閑な小村に、次々と起こる事件。

村で唯一のドクターの落馬事故が、何者かによって仕掛けられた、細くて強靭な針金網に引っ掛かった事件と化したとき、まるでそれが、それまで連綿と保持されていた秩序の亀裂を告知し、そこから開かれる「負の連鎖」のシグナルであるかのようだった。

以下、それらの「事件」、「事故」や、看過し難い出来事を列記していく。

まず、冒頭のドクターの事故を忘れさせるような悲劇が出来する(ナレーターでもある村の教師の言葉)。

荘園領主でもある男爵の納屋の床が抜け、小作人の妻が転落死するが、男爵に恨みを持った小作人の息子は「事件」を確信して止まなかった。

同日、牧師の息子であるマルティンが、橋の欄干を渡る危険行為を教師が目撃し、本人は死ぬつもりだったと告白。
父に伝えられることを恐れるマルティンには、既に物語の序盤で、定時の帰宅時間に遅れた姉のクララと共に厳しく叱咤されていた。

以下、その際の父の説教。

「今夜は、私も母さんもよく眠れない。お前たちを打つ私の方が痛みが大きいのだ。お前たちが幼い頃、純真無垢であることを忘れないようにと、お前たちの髪や腕に白いリボンを巻いたものだ。しっかり行儀が身に付いたから、もう必要ないと思っていた。私が間違っていた。明日、罰を受けて清められたら、母さんに白いリボンを巻いてもらえ。正直になるまで取ってはならない」

白いリボン」とは、厳格な牧師の父にとっては「純真無垢」の記号であるが、それを巻かれる子供たちにとっては、「抑圧」の記号でしかないことが判然とする説教の内実だった。



2  子供たちの「従順過ぎる自我」の心理的背景にある、専制君主的な男たちの振舞い
 
 
 
秋の収穫祭の日。

男爵家のキャベツ畑が荒らされるが、犯人は、転落死した小作人の妻の息子だった。

その夜、男爵家の長男が逆さ吊りの大怪我を負い、父を激昂させる。

「犯人は我々の中にいるのだ。私は罪人には必ず罰を与える男だ」

小作人を集めた前で、村人の半分を小作人に雇う男爵の檄は、村人たちを震撼させるに足る劇薬だった。

男爵家の長男の問題の責任を問われて、男爵家の乳母であるエヴァが解雇され、彼女に好意を持つ教師に泣きつくというエピソードが拾われていた。

まもなく、事件に怯(おび)える男爵夫人は子供たちを連れて、実家に帰っていく。

冬。

家令(事務・会計管理、使用人の監督等の任務に就く)の赤ん坊が風邪をひくという小さな出来事を、映像は拾っていく。

その風邪の原因は、赤ん坊の部屋の窓が開いていたことにあり、この辺りから、「事件」、「事故」に子供の関与が濃厚になっていくという伏線が張られていくが、その伏線の回収は遅々と進まず、いよいよミステリーの濃度を深めていくのだ。
 
男爵家を解雇されたエヴァの両親に、意を決して、教師は求婚に行く。

しかし、父親から結婚を1年待つように、一方的に通告されるばかりで、その些か命令口調の通告を受容する以外にない善良なる教師が、そこにいた。

既にエヴァは町で働いていて、ここでも、娘の良縁の可能性を捨てていない厳格な父親の意識が見え隠れするが、しかし、その本音は、教師の人間性を観察するための「猶予期間」であったのだ。

また、「事故」が出来した。

男爵家の荘園の納屋が火事になり、小作人が縊首しているのが発見されたのである。

更に、退院したドクターは助産婦との男女関係を続けていたが、彼は信じ難い言葉を吐き、彼女に別れを告げるのだ。

「お前は醜く、汚く、皺(しわ)だらけで、息が臭い。ふぬけた死人のような顔をして。世界は壊れない。お前にも私にも」

このように、映像は、この村に住む男たちの専制君主的な振舞いを次々に見せていくのである。

この専制君主的な振舞いこそ、村の子供たちの「従順過ぎる自我」の心理的背景にあることを示していくのだ。

そのドクターは、あろうことか、14歳の自分の娘であるアンナとの近親相姦の関係にあった。

そのことを助産婦に指摘されたドクターは、「お前は黙って死ね」と罵るのみ。

その辺りに、冒頭のドクターの落馬事故との因果関係があるらしいことを、完璧なまでに論理的な映像は、観る者に提示していくのである。



3  「悪意や、嫉妬、無関心や暴力よ」という闇の文脈



春。

愛児のジギと新しい乳母を連れて、男爵夫人は村に戻って来た。

助産婦のダウン症の息子、カーリが顔面血だらけの状態で発見され、視力を失う事件が出来する。

この辺りで、一連の「謎の事件」のの犯人が、村の子供たちの集団的な行為であることが判然としてくる。
 
神学の授業での「仕切り方」を見る限り、牧師の長女のクララがそのリーダーであることをも、観る者は理解し得るだろう。

近代的思考を持つ男爵夫人は、この時点で、自分と子供たちの人生の行く末を考え、今度ばかりは意を決して、冷酷な性格の夫に告白するに至る。

以下の通り。

「でも、ここに入られない。言いたくないけど、あなたと一緒にいても、少しも楽しくないの。子供たちだって、ここではとても育てられない。ここを支配しているのは、悪意や、嫉妬、無関心や暴力よ」

「ここを支配しているのは、悪意や、嫉妬、無関心や暴力よ」という男爵夫人の言葉こそ、本作を貫流する闇の文脈である。

まもなく、ドクター、助産婦とダウン症の息子カーリの姿が消え、一連の「謎の事件」の「真犯人」こそ、逃亡した彼らの仕業だという噂が、あっという間に村全体に広がっていく。

その後、教師はエヴァと結婚し、徴兵される。

第一次世界大戦が勃発したのである。

終戦後、教師は町で仕立屋を開き、村人たちとは2度と会うことはなかったというナレーションによって、ナレーターとしての教師の役割は形式的には完了する。

但し、この間、助産婦の離村に際し、彼女からカーリの事件の犯人が判明したと聞いたことから、彼なりに調査していく経緯が描かれるが、そこで得た教師の情報は、牧師の子であるクララとマルティン姉弟が一連の「謎の事件」に深く関与している事実であった。

それを確信した教師は、直接、牧師の自宅を訪問している。

そこでの牧師との緊迫した会話については、本作の核心的な内実を含むので、後述する。

 
 
(人生論的映画評論/白いリボン('09)  ミヒャエル・ハネケ <洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動のチェーン現象を繋いでいく、歪んだ「負のスパイラル」>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/08/09.html