阿修羅のごとく(‘03)  森田芳光 <鋭角的な前線の果てに待機していた、家族という名のとっておきの求心力の物語>

イメージ 11  「人間は『阿修羅』の如き存在である」ばかりではない



「阿修羅。インドの民間信仰上の魔族。外には礼義智信を掲げるに見えるが、内には猜疑心が強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言いあう。怒りの生命の象徴。争いの絶えない世界とされる」

これが、「阿修羅のごとく」の冒頭のキャプション。

1979年と1980年に、NHK総合テレビで放送された著名なテレビドラマで、長女役だった加藤治子のナレーションによるもの。

物語は、「女は『阿修羅』の如き存在である」というテーマに沿って作られているが、映画の内実は、殆どホームコメディのような構成になっていて、テーマだけが誇張されている印象を拭えない。

オスマン帝国の軍楽隊で有名な「攻撃行進曲」を有効に駆使した、かつてのテレビドラマの本線を意識し過ぎたのか、嫉妬に狂い、物を投げつけたばかりか、その死後、行李(こうり)の中から春画が出てくる鮮やかなカットを挿入させた、竹沢ふじ(母)に象徴される、「この母こそ、『阿修羅』の如き存在だった」というドラマの切れを削り取ってしまったことで、テーマ性を希釈させたが故に、本篇は、「インジブルファミリー」(近隣に住んで助け合う家族)とも思しきイメージラインに沿ったホームコメディのうちに、優しく包み込むように軟着させてしまったのである。

だから、物語の中で描かれる女たちの軋轢や葛藤のエピソードには、「内には猜疑心が強く、日常争いを好む」という性格にシンボライズされた、女は『阿修羅』の如き存在である」というテーマと切れてしまっていた。

従って、この映画のタイトルは、物語の本線を集約させた言辞としては、あまりに不相応だった。

私自身、女は『阿修羅』の如き存在である」という認識を持っていないので、この物語の内実に全く違和感がなく、映画としての出来を高く評価するのに吝(やぶさ)かではない。

人は様々に感情をコンフリクトさせ、そんな沸騰し切った状況下で、抑制できずに悪意を吐き出すあまり、相手を激しく罵倒し、叫び上げ、狂気の片鱗を露呈しさえする。

「人間は『阿修羅』の如き存在である」

この把握が正しいのである。

然るに、「人間は『阿修羅』の如き存在である」ばかりではない。
 
内には猜疑心が強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言いあう」が、そこに時間の隙間ができたとき、「他人の悪口を言」う自分を相対化することで、恥入り、自省する。

異性に愛されない自己を呪い、特定他者を呪っていても、なお、異性を愛する自己に陶然とする時間を持ち得るし、それが偶(たま)さか、小さくも愛の成就に軟着すれば、自己を呪い、特定他者を呪っていた自己を葬ることができるだろう。

嫉妬の炎で我を失っていた、本作の二女・巻子は、「やだ、私、何てる・・・」とふっと洩らしたが、これが、複雑に交叉する感情に翻弄され、悩み、迷妄の森に搦(から)め捕られ、時には、突き放しさえする私たち人間の偽らざる様態である。

嫌悪や憎悪の対象人格だった相手を赦し、罵り合っていた時間を浄化し、共に泣き、慰撫し合うのだ。

それもまた人間なのだ。

このように、女は『阿修羅』の如き存在である」ではなく、「人間は『阿修羅』の如き存在である」という私の把握は今でも変わっていないので、この映画を受容する思いには、大袈裟なテーマ性と切れて、映像総体への評価の高さが裏付けされている。

以下、ここでは、そんな私の問題意識に即して言及していきたい。



2  四姉妹の交流の累加の中で、姉妹たちが抱える「秘密」が露わになっていく物語の稜線



簡単に梗概を書いておこう。

時は、昭和54年の冬。

相応に格式のある日本家屋に住む老夫婦 ―― 竹沢恒太郎とふじ。

円満な老夫婦を強く印象づけるが、70歳になる恒太郎に、年の離れた愛人と子供がいる事実が発覚したことから、女系家族の波乱の物語が開かれていく。
 
四姉妹の中で、図書館司書の職務に就く三女・滝子が、その事実を知って、比較的疎遠だった姉妹を招集する。

生来的に潔癖(潔癖症にあらず)な滝子は、「父の浮気」を不浄な行為と考えるが故に、私立探偵に依頼してまで、その証拠を確認せねばならなかった。

証拠写真を提示されて、動揺する姉妹たち。

母には知られることがないようにと確認し合う姉妹たちだったが、四姉妹の交流の累加の中で、彼女たちが抱える「秘密」が露わになっていくのは時間の問題だった。

華道の師匠で身過ぎ世過ぎを繋いでいる未亡人の長女・綱子には、生け花の外注を依頼する料亭の亭主と懇(ねんご)ろな間柄になっていて、その事実を察知した妻の「討ち入り」にまで発展するに至るが、そのドロドロの関係が延長されていくという、まさに「阿修羅のごとく」を地で行く有様が描かれる。

一方、二人の子供を儲けている次女の巻子は、サラリーマンの夫・鷹男が、部下の秘書と不倫関係の事実を知って以来、心穏やかでない日々を送っているが故に、父の愛人問題に些か過剰な反応を示す。

ましてや、綱子の不倫関係に対する反応が、「夫を奪う姉」という尖ったラベリングに結ばれるのは必至だったと言える。

また、全く男っ気がないことで、奔放な四女・咲子から愚弄される三女・滝子は、彼女が依頼した私立探偵の勝又から、知り合ってまもなく、トゥレット障害(慢性チック症)とも思える、不器用で訥弁のプロポーズを受けるが、本人は至って真面目な男で、且つ、礼儀を弁(わきま)えているので、この似合いのカップルには、「阿修羅」の亡霊も近寄ることもない。

そんな滝子の性格が売れない新人ボクサー・陣内と同棲する四女・咲子の奔放な性格と相性が合う訳がなく、顔を合わせれば口論する始末で、この二人に関しては、「阿修羅のごとく」の相貌性が剥き出しにされていたと言えるだろう
 
 
その陣内と咲子が、滝子と勝又の結婚式のハレの日に、礼儀を弁えていない振舞いに及んだことで、関係が決定的に乖離してしまうのである。

姉妹という関係の濃度が高いが故に、却って厄介な感情の亀裂を生んでしまうのである。

しかしそこには、新人戦に勝った後、パンチドランカーの末路を辿っていくような陣内の疾病の予兆が伏在していたが、まもなく、それが顕在化することで、滝子と咲子の関係が好転する契機を作つてしまうところが、如何にも、アンビバレンツの感情を生み出しやすい肉親の微妙な綾と言っていい。

「私、遣り切れないの。陣内さん、どうかなりゃいい。咲子、ペチャンコになればいい。そう思った事あるの。本当になるなんて。姉妹って変なものね。妬みそねみもすごく強いの。そのくせ姉妹が不幸になると、やっぱりたまんない・・・

時系列は前後するが、これは、緊急入院した陣内のベッドの傍らで、必死に看護する咲子の思いを汲み取った滝子が、その煩悶を勝又に吐露する言葉。

この流れが、三女と四女の関係の修復に軟着していくというドラマの本線をフォローする限り、阿修羅のごとく」のドロドロとした情感世界と切れていることが確認できるだろう。
 
そんな中で、母・ふじ だけは、泰然とした日常性を、昨日もそうだったような流れの延長に、笑みを湛えた表情のうちに垣間見えるようだった。
 
 
(人生論的映画評論・続/阿修羅のごとく(‘03)  森田芳光  <鋭角的な前線の果てに待機していた、家族という名のとっておきの求心力の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/12/03.html