蒲田行進曲(‘82) 深作欣二 <「全身映画的」を構築し切った「活動屋魂の復元」の情感のうちに結ばれた、「カーテンコール」という自己完結点>

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1  「全身映画的」なヒューマン・コメディの一代の傑作



良かれ悪しかれ、いつの時代でも、その時代の風景に見合った映画のサイズが存在することを慮(おもんばか)れば、本篇が、「映画命」と幻想し、その身を削っていた者たちが、なお命脈を繋いでいた、「古き良き時代」の産物であるとは更々思わないが、それでも、様々なコードの縛りに後込みすることなく、融通無碍に対応し、これほどの破壊力溢れるヒューマン・コメディが構築されたことに、正直、驚きを禁じ得ない。

私の主観では、この映画は、この国で数多(あまた)作られてきて、昨今でも作られ続けているヒューマン・コメディの一代の傑作であると考えている。

 相当に暑苦しく、過剰な芝居の臭さも気になるが、敢えて確信犯的に、「全身映画的」という問題意識を抱懐して作ったであろう、深作欣二監督の強靭な思いが、自給熱量のマキシマムな発現に変換され、それが作品総体のうちに、見事なまでに計算され、凝縮されたコメディとしての眩い輝きを放っていた。

コメディなのに感涙に咽ぶシーンに、情動が反応してしまうのは、本作が紛れもなく、ヒューマン・コメディとしての力量が、一ランク上の凄みを表現し切っていたからである。

一貫してテンポが良く、無駄のないエピソードの繋ぎは殆ど完璧であり、それが、観る者の鑑賞スタイルの律動感を壊すことなく、弛緩を生むことも全くない。

何より驚かされるのは、児戯性丸出しで、喜怒哀楽が激しいスター俳優の銀四郎(銀ちゃん)を演じた風間杜夫、その銀ちゃんに心酔する、大部屋俳優のヤスを演じた平田満、そして、腹ボテという一因も手伝って、関西興業界の実力者の令嬢の娘に現(うつつ)を抜かす銀四郎に捨てられるという、売れない女優の小夏を演じた松坂慶子の三人によって演じ分けられた、物語の主人公の圧倒的な表現力の高さである。

それぞれのキャラに成り切って、そのキャラを全身で表現する。

その中にあって際立つのは、非常に難しい役どころを演じ切った、松坂慶子の内面的表現力の秀抜さ。

映画の前半で見せた彼女の、「落魄した無気力感」が鮮明に焼き付けられるや、小気味のいいほどテンポのいい物語の中で、その「落魄した無気力感」が浄化されていく心的行程を、精緻に表現したその凄みに驚かされる。
 
一貫して、訴求力の高い表現力を見せつけた、松坂慶子の内面的表現力の秀抜さは、二人の男の狭間にあって、最後は夫の無事を思い、軟着し得た小夏の、何とも言えない柔和な表情が、“階段落ち”のエピソードという中枢の物語の、そのサイドラインを支え切た絵柄の出色さによって検証されたのである。

これらの要因が、人情喜劇としての強度を決定づけていて、些か「時代限定性」の印象を拭えないながらも、「全身映画的」なヒューマン・コメディの一代の傑作と評価し得る作品に昇華したのだろう。



2  「全身児戯性」のスター俳優と大部屋俳優の「半身悲哀」



 ここに、本作の物語の本線である“階段落ち”に関わる、興味深い丁々発止の会話がある。

 会話の主は、映画監督とスター俳優の銀四郎。

40段近い階段の時代劇(「新撰組」)のセットを作っても、肝心のスタントマンが不在で、危険過ぎる撮影に対する警察当局のクレームがあり、会社側の中止の方針が内定された事情への不満が、両者の感情的軋轢を生むというエピソードである。

以下、土方歳三役の銀四郎の憤怒の異議申し立て。

「それは、警察は立場上、止めるよ。人一人死ぬかもしれねぇんだから!でも、それを押してもやるのが映画なんじゃないの!第一、“階段落ち”のねぇ『新撰組』なんか、お客が入ると思いますか!そうだろ、皆!」

ここで、「皆!」と相槌を求められたのは、銀ちゃんに憧れているの大部屋俳優のヤスたち一同。

 「これは、俺の映画だよ」

監督も、ここまで言われたら黙っていられない。

 「俺の映画だ!監督だぞ、俺は!」

ここで、銀ちゃんの泣きが入っていく。

「“階段落ち” やりましょうよ」

“銀ちゃん”こと倉岡銀四郎の不満の炸裂が、監督に向かっていくから、監督も厭味を言わずにいられない。
 
「俺だって“階段落ち”やりてぇんだよ、本当は。何のために、こんな化け物みたいな階段作ったと思ってんだ!ところがな、落っこてくれる奴がいないんだよ。東京から呼んだスタントマンもビビって、逃げて帰っちゃったんだよ。そうだ、銀ちゃん。誰か心あたりないか。このてっぺんから転がり落ちて、背骨を折っても、ドタマかち割っても平気な、威勢のいいの!昔のスターさんには、そんな子分の5,6人もいたっちゅう話だけどね」
 
そこまで言われて、銀ちゃんは階段下に控えている子分に向かって、居丈高に叫ぶのだ。

「どうなんだ、てめえら!」

お互いに顔を見合わせて、誤魔化し笑いをする子分たち。

一際(ひときわ)目立つ「おいしい役回り」であっても、“階段落ち”までして、命を喪いたくないのは、大部屋俳優と言えども同じである。

彼らが逡巡するのも当然のこと。

その後、ご機嫌斜めな銀ちゃんは、美人のファンにサインを頼まれ、脚にサインをするサービスぶり。

もう、これで気分が変わる。

スター俳優のアイデンティティは、こんな他愛もない行為で解消されるのだが、銀四郎の場合は、子分たちから「銀ちゃん」と呼ばれているように、そのキャラの喜怒哀楽の激しさと上手に付き合うスキルさえあれば、「おこぼれ」に預かることができるほど、この人物は「全身児戯性」に溢れているのだろう。

ともあれ、そんな男の児戯性丸出しのキャラが全開する一方、そんな男の権威に縋って、何とか、見過ぎ世過ぎを繋ぐ大部屋俳優の悲哀もまた、このエピソードは雄弁に物語っていた。

だから、却って始末が悪いのである。

先の美人のファンにすっかりのぼせた銀ちゃんは、ヤスに電話番号を聞きに行かせ、成功し、有頂天の天然ぶり。

ところが、子分たちを連れた飲み屋で、自分にサインを求める者が一人もいないことに腹を立て、店に火をつけるぞと恫喝し、大暴れする始末。
 
このように、「全身児戯性」に溢れ返っている銀ちゃんのキャラが立ち過ぎて、もう、手のつけられない暴走に至れば、「おこぼれ」に預かる大部屋俳優のスキルも種切れになるのだ。
 
まさに、「全身児戯性」のスター俳優と、大部屋俳優の「半身悲哀」の風景が、そこにあった。

この一連のエピソードで読み取れるのは、銀ちゃんと大部屋俳優の関係が、明らかに「権力関係」であると把握し得ること。

ただ、その「権力関係」に、ヤスのように、「銀ちゃん命」の「人情」が絡んでしまうから、厄介な展開を開いてしまうのだが、この点に関しては、稿を変えてフォローしていきたい。

 
 
(人生論的映画評論・続/蒲田行進曲(‘82) 深作欣二 <「全身映画的」を構築し切った「活動屋魂の復元」の情感のうちに結ばれた、「カーテンコール」という自己完結点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/02/82.html