1 千切れかかっていた「善」が、確信犯の「善」のうちに収斂される物語
権力を維持するために行使される、過剰な暴力を是とするシステムに馴染めない「善」と、その権力への自衛的暴力を行使することを指示する確信犯の「善」が物理的に最近接し、そこに心理的化学反応を引き起こす。
拠って立つ理念において、決して折れることのない後者の放つ「善」の圧倒的求心力は、いつしか、洗脳的なラベリングによる、前者の「善」の欺瞞に満ちた身体性を剥落させ、「贖罪感」という名の未知のゾーンにまで引っ張り上げていく。
未知のゾーンにまで引っ張り上げられた男の射程には、男が秘かに望む「同志」の存在は皆無であり、そこには、選択した職業における、「上司」か「同僚」の存在という範疇のうちに収められていただけだった。
確信犯の息子の死に深く関与したことで「贖罪感」を胚胎させた果てに、今や、自分の昇進を望む妻の限定的愛情にのみ縋るしかない男の、その心理的孤立感が行き着いた世界は、拠って立つ安寧の精神的基盤の脆弱性の認知であった。
精神的基盤の脆弱性を晒すことで穿(うが)たれた自我の空洞が、確信犯の「善」が放つ確信的な理念と、その際立って高い道徳的質の集合的価値を内包する、凛とした身体性によって埋められていくに至る。
ほんの少し、「変容する時代」の先にイメージされる理念系の様態は、いよいよ、確信犯の確信的な振舞いのイメージに沿うように進んでいくことを全人格的に視認したとき、過剰な暴力を是とするシステムに馴染めない男は、「この激動の時代に、傍観者でいたくない。歴史の1ページに加わりたい」と妻に言い放った。
なお、男の能力を必要とする権力機関は、一度離れた確信犯との再会を具現させる。
男はもう、逃げられなくなったのだ。
息子の「事故死」に深く心痛する人間性を、全人格的に表現する確信犯と同様に、自分の息子をも喪った男の、千切れかかっていた「善」は、確信犯の「善」のうちに完璧に収斂されるに至るが、そこにはもう、単なる言葉の羅列ではなく、身体化された男の生き方を決定的に反映させる何かに変貌を遂げていたのである。
本作を端的に表現すれば、以上の文脈で説明できるだろう。
これは、千切れかかっていた「善」が、「君たち白人と平和に共存したいだけだ」と放つ確信犯の「善」のうちに収斂されることで、「贖罪感」という名の未知のゾーンにまで引っ張り上げていった挙句、己が人格の奥深くで心理的化学反応を惹起させる物語であり、それによって、自らが負った贖罪感を昇華し、かつて男の過去がそうであったような、黒人の親友との睦みを、成熟した自我の言語のうちに浄化さていく物語でもあった。
言わずもがな、確信犯の「善」とは、南アフリカ共和国第8代大統領であるネルソン・マンデラ。
そして、過剰な暴力を是とするシステムに馴染めない「善」のモデルは、「さようなら、バファナ」(本作の邦題名)を書いたジェイムズ・グレゴリー。
本作は、このジェイムズ・グレゴリーの視線のうちに捕捉されたネルソン・マンデラの、その際立って高い道徳的質の集合的価値を内包する人物像を特定的に切り取った映画であるということだ。
ともあれ、「善」と「善」の心理的化学反応を描く物語は、観る者の感情移入を受容する、あらん限りの要素を包含させていて、まさに「アパルトヘイト」という、この国のよく知られた現実が、冒頭の説明的キャプション(注1)によってあっさりと片付けられていることで分明である。
これは後述する。
物語に関わる人種差別政策については、その最低限の情報を、観る者が保持しているという前提において作られた物語の制約下で、どこまでも本作は、人間の「善」の可能性を信じる者たちの支持を受ける構造性を内包していると言っていい。
だからこそ、厭味なしに言えば、文部科学省選定の決定版という、映像作品としての一定の賞味期限を保証したのであろう。
以下、物語の要所を押さえながら、以上の私の把握に則って、本作の梗概をフォローしていきたい。
(注1)「南アフリカ。1968年。アパルトヘイト下の黒人たちには、参政権や土地所有権や移動の自由がなく、雇用や教育の不平等がまかり通っていた。人種平等を叫ぶ組織は全て弾圧され、黒人指導者の多くは政治犯として収監された。彼らの行き先はロベン島であった」
2 「処刑すべきテロリスト」という、ラベリングされた人格像と切れていくとき
「島の囚人は黒人?」と長男。
「皆だ」と父。
「前は白人だった」と長男。
「刑務所も別なんだよ」と父。
「島の囚人はテロリストよ」と母。
「何が違うの?」と長男。
「白人を皆殺しにして、土地を取ろうとしているの」
「隔離しないとな」と父。
これは、冒頭シーンでの、ロベン島に赴任するグレゴリー親子の会話である。
この会話の中に、刑務官としてのグレゴリーが把握する、ANC(アフリカ民族会議)に象徴される黒人指導者への視座が直截に反映されている。
母とは、グレゴリーの妻グロリア。
長男の名は、ブレント。
後に、父の後を追って、刑務官になる優秀な青年だが、未だ幼い少年の好奇心には、黒人の囚人=テロリストという脈絡が理解できないのだ。
ブレントへの言葉に端的に表現されていたように、マンデラを「最悪のテロリスト」と考えるグレゴリーは、国家公安局のジョルダン少佐からの「密命」を受託した際にも、未だ見ぬマンデラを「処刑すべきです」と答えているのだ。
そのジョルダン少佐からの「密命」とは、マンデラの故郷(トランスカイのウムタタ近郊クヌ村)の近くで育ったことで、コーサ語が話せるグレゴリーが、マンデラらの秘密の会話の一部始終を聞き取って、随時、それを報告すること。
ロベン島でのマンデラ担当の刑務官になったグレゴリーには、その仕事が昇進の近道であることを、夫婦揃って愉悦する気分の中に浮足立っていた。
グレゴリー一家の生命線であるマンデラとの、直接会話の機会を求めたグレゴリーは、廊下の私語で5日間の懲罰房に入っている件の黒人指導者と初対面するが、後ろを向いて、振り向こうとしない「最悪のテロリスト」との会話は不成立に終わる。
6ヶ月後、年に2回だけ許されたロベン島での面会の際に、マンデラ夫婦の会話を聞き取るグレゴリー。
「この結婚が大変なことは分っていた」
マンデラ夫人の印象深い言葉である。
これを聞き取ったグレゴリーが、コーサ語での会話を遮断させたことで、あえなくロベン島での面会が閉じるに至った。
国家公安局のジョルダン少佐に、グレゴリーが会話の内実を報告したのは言うまでもない。
それが、彼の最も重要な任務だからである。
「マンデラ夫人を無期限拘禁にする」
そのときの、ジョルダン少佐の反応の全てである。
しかし、その結果出来した事態は、職務熱心なグレゴリーにとって看過し難いことだった。
マンデラの息子のテンビが事故死するに至ったのである。
時を逸することのない、あまりに偶発的な事態の出来に、グレゴリーは、自分の密告が原因ではないかと思い悩むのである。
それは、息子の訃報に接したマンデラの悲哀の深さを目視するグレゴリーにとって、二重の懊悩となって返報されていく。
元来、誠実な人柄のグレゴリーの内面は、この一件を契機に、少しずつ、しかし何かが決定的に変容していくのだ。
それを、「贖罪感」の発生と把握しても誤謬ではないだろう。
少年期における、黒人の親友バファナとの別離を回想するグレゴリー。
あのとき、「一生大事にする」と言って、バファナからお守りを受け取ったのだ。
この回想シーンは、グレゴリーが歪んだ人種差別主義者でなかった事実を裏付けるものである。
その直後に、テンビの死のお悔やみのために、グレゴリーは、懊悩を深めるマンデラの房を訪ねた。
以下、マンデラとの会話。
「読んださ」とグレゴリー。
「嘘だ。禁書扱いの文書を看守が読める訳がない」
「話は聞いている」
「我々の望みは平等な権利だ。君たち白人と平和に共存したいだけだ。子供のために。君も親なら分るだろ」
いつになく尖った、このマンデラの言葉は決定的に重要である。
否が応にも、切っ先鋭く、ダイレクトに侵入してきた言葉には、真実を語る者の迫真性に満ちていたからである。
誠実な人柄のグレゴリーの、その心の中枢に入りこんできた男の言葉は、今や、「処刑すべきテロリスト」という、ラベリングされた人格像とは明らかに切れていたのだ。
この辺りから、「贖罪感」を抱え込んだグレゴリーは、そこに拠ってきたはずの、欺瞞に満ちた「善」の身体性を剥落させていくのである。
(人生論的映画評論・続/マンデラの名もなき看守('07) ビレ・アウグスト <千切れかかっていた「善」が、確信犯の「善」のうちに収斂される物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/07/07.html