男はつらいよ 寅次郎恋歌('71) 山田洋次 <リンドウの花――遠きにありて眺め入る心地良さ>

イメージ 1序  「寅さん映画」の真髄



 「寅さん」シリーズ全48作の中で、そのコメディのパワーと映像的完成度のレベルから「最高傑作」を選ぶとしたら、私は躊躇なく一作目の「男はつらいよ」か、5作目の「男はつらいよ 望郷篇」を選ぶであろう。

 この二作は、全シリーズの中で群を抜く秀逸さを示していて、作り手の強い思いと、その思いを受けた役者たちの熱気がストレートに伝わるほどの会心作と言って良かった。

 それは、観客の心を鷲掴みにして止まない滑稽感と哀感に充ちていて、その圧倒的な表現力は、他のコメディの追随を許さない力量を存分に感じさせた作品だった。

 しかし、「私の中の最高傑作」を選べと言われたら、私は以上の二作への愛着を捨てて、シリーズ8作目に当る「男はつらいよ 寅次郎恋歌」という作品に、自分の思いが振れてしまうのを止められないのである。それだけ本作は、私にとって印象的な作品であったし、そこにこそ「寅さん映画」の真髄があると考えたのである。


その理由は後述するとして、とりあえず本作のストーリーラインを追っていく。

 

 1  定番的な「別れの儀式」が捨てられて



 旅芸人の一座と交わって、歓談している内に、寅さんは故郷柴又が恋しくなって、帰郷する。しかし例によって、変なところでシャイで、遠慮深い寅さんは中々団子屋の暖簾を潜れないでいた。

 そして例によって、団子屋の連中もそれに気づき、いつものように歓迎の儀式を演出しようと図るのだ。今回の場合、この歓迎の儀式には伏線があった。近所で寅さんの悪口を言われていることに対して、身内の者が憤慨していたのである。
 
 「お兄ちゃんは何も悪いことしていないのに・・・」

このさくらの思いが、団子屋の結束力を高めたのである。
ところが団子屋の連中ときたら、からっきし演技力がない真面目な連中なので、そのオーバーな儀式が寅さんにバレてしまうのである。

そういうシャープな嗅覚だけは、この男に抜きん出て備わっているから厄介なのだ。この日の帰郷もまた、そうだった。
 
 「何の真似だい?」と寅。
 「何の真似って、おめぇを歓迎してるんじゃねぇか」とおいちゃん。
 「どうして俺を歓迎してるんだ」
 「あれ?歓迎しちゃいけねぇのかい?」
 「あんまり、良かねぇな」
 「どうしてよ、歓迎された方がいいじゃないか」とおばちゃん。
 「歓迎されてぇ気持ちはあるよ。だけどおいちゃん、俺はそんなに歓迎される人物かよ」
 「お兄ちゃん、何もそんな言い方しなくたって・・・」と妹のさくら。
 「さくら、おめぇ企んだな。あんちゃん久し振りに帰って来たら、からかおうと思ったろ?」
 「誰もからかってなんかいないわよ!何ひねくれてんのよ」
 
 さくらが珍しく語気を荒げても、この日の寅さんは、最愛の妹の感情のラインに合わせることをしなかった。それだけこの男には、眼の前で演じられた芝居が余りに見え透いたものに映ったのだろう。

 その挙句、いつものように身内の事情を知らない厄介なる男は、これもまたしばしばそうであるように不貞腐れて、外に出てしまった。

 「あぁ、嫌だ、嫌だ。俺はもう横になるよ・・・」

 このおいちゃんの決め台詞が出たところで、一応その場の収拾が図られたのである。

 ところが、この日は違っていた。

 その夜、すっかり酩酊した寅さんが見知らぬ連中を団子屋に連れて来て、そこで二次会を始めようとした。

 しかし店の奥の茶の間には、寅さんのご乱行に腹を立てている身内がいる。空気が既に澱んでしまっていたのだ。その空気を鋭利に察知しつつも、寅さんは暴走を止められない。意地でも強行突破を図るようにも見えた。

 結局、おいちゃんと立ち回り寸前の兄を、さくらが必死に止めて、妹なりの配慮を繋ごうとした。

 さくらは兄の客人にビールを注いで、酌婦まがいの行動を辞さなかったのである。更に、妹に対して歌まで歌わせようとする傍若無人の兄の前で、本当にさくらは「かあさんの歌」を歌い出したのだ。


    母さんは 夜なべをして
   
       手袋 編んでくれた

    木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて

    せっせと編んだだよ

    故郷の便りは届く

    囲炉裏の匂いがした  

    母さんのあかぎれ痛い 生味噌・・・・
 

 さくらは嗚咽を堪えながら歌っている。

 兄の寅は、もう何も言えなくなった。もう何も求められない。妹の涙は、兄の暴走を食い止める唯一の抵抗力なのである。しかも妹が歌った歌は、異母兄妹である二人の、微妙な血縁の因果を想起させるに充分な内容を持つ何かだった。

 寅は黙って旅に出ようとする。それは殆ど、常套的なパターンの範疇に収まるものだ。

 「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
 「さくら、済まなかったな。おいちゃんたちに謝ってくれや」

 定番的な「別れの儀式」が、そこに捨てられた。今回は存分に余情を残しながら。
 


 2  リンドウの花、明々と灯りのついた茶の間、賑やかに食事をする家族たち



 寅さんが旅立って、暫くたったある日、さくらは博の母の危篤を知らせる電報を受け取った。
博とさくらの夫婦は、息子の満男をおいちゃん夫婦に預けて、備中高梁(古い町並みを残す岡山県の城下町)にある実家に帰郷することになった。

 博は若い頃、性格の合わない父親に反抗して家出していたのである。だから彼にとって、この帰郷は特別な意味を持っていたとも言えた。

 さくらという恋女房を伴って浩が実家に戻ったとき、時既に遅く、博の母は息を引き取っていた。あろうことか、まさにその葬儀の日、そこに突然寅が現われたのである。寅は柴又の実家に電話して、博の母の一件を知って、線香を上げに来たのだった。

 驚いたのは、さくらと博。
一張羅の香具師(やし=露天商)姿で現われた兄を叱った妹は、実家の配慮で黒のモーニングに着替えて、縁者の一員として出席することになった。しかし実家に失礼な振舞いをする兄に、さくらは迷惑するばかり。お馴染みのパターンである。

 葬儀を終えた夜、父に反発する博は母を庇うあまり、兄たちと言い争いをした。博は咽びながら、母への愛を言葉に結んだ。幸いにもと言うべきか、事態を感傷に流した身内の者とひと悶着起すことなく、さくらと博は柴又に戻って行った。

 兄と岡山で別れたと信じたさくらは、博の実家に電話して、驚嘆した。寅が電話に出たのである。寅はやもめ暮らしを余儀なくされた博の父に同情して、いつの間にか居座っていたのである。

 「哀切なる柴又別離」という、落語の小噺的な「枕」の部分が映像の冒頭の描写で終って、いよいよ寅さん物語の第1章の幕が開かれていく。
 
 寅さんは、博の父との共同生活をそれなりに楽しんでいた。そんな男に、博の父は語りかけた。

 「寅次郎君、旅の暮らしは楽しいかね?」
 「ええ、そりゃぁ楽しゅうございますよ。何て言ったって、こりゃぁ止められませんね」

 明日辺り、旅に出ようと語る寅に、博の父は問いかけた。

 「で、君はこれからどこへ行くつもりかね?」
 「・・・これから寒くなるから、南の方に行くってことになるんじゃないですか。気楽なもんだよね。それに、女房子供がいねぇから、身軽でいいですよ・・・」
 
博の父は、酒に任せて歌う寅の態度を戒めて、自分の旅の思い出について、ゆっくりと噛み締めるように語っていく。

 「そう、あれはもう10年も昔のことだがね。私は信州の安曇野というところに旅をしたんだ。バスに乗り遅れて、田舎道を一人で歩いている内に、日が暮れちまってね。暗い夜道を心細く歩いていると、ぽつんと、一軒家の農家が立っているんだ。リンドウの花が庭一杯に咲いていてね。

 開けっ放した縁側から灯りのついた茶の間で、家族が食事をしているのが見える。まだ食事に来ない子供がいるんだろう。母親が大きな声で、その子供の名前を呼ぶのが聞こえる。私はね、今でもその情景をありありと思い出すことができる。庭一面に咲いたリンドウの花。明々と灯りのついた茶の間。賑やかに食事をする家族たち。

 私はそのとき、それが、それが本当の、人間の生活ってもんじゃないかと、ふと思ったら、急に涙が出てきちゃってね。

 人間は絶対に一人じゃ生きていけない。逆らっちゃいかん。人間は人間の運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと、不幸な一生を送ることになる。分るね、寅次郎君」

 「へい、分ります。ようく、分ります」
 
 寅さんは、博の父の話を真剣に聞き入っていた。

 この男には、そんな素直な性分がある。だからこそ、学者である博の父はこんな男と同居し、かつ意義深い話をしたに違いない。明らかにそれは、自分の人生訓の押し売りというよりも、定着を好まない中年男への丁寧なアドバイスであった。


 
(人生論的映画評論/男はつらいよ 寅次郎恋歌('71) 山田洋次 <リンドウの花――遠きにありて眺め入る心地良さ> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/10/blog-post_25.html