1 俳優たちが伸び伸びと演技する人間模様の風景の圧巻
コメディとして完全受容し、観ることができなければ、「アウト」と言われるような典型的な作品。
私は完全受容し、観ることができた。
だから存分に楽しめた。
ただそれだけのこと。
ただそれでけのことだが、このようなコメディと付き合っていくには、鑑賞スタイルに張り付く観念系の余分な贅肉を削り落し、軽量化した気分の状態で、その映画を心の底から楽しめるかどうか ―― それが全てだと、私は考えている。
コメディに、見当外れのモラルを過剰に持ち込むことの厄介さ。
これには注意したいものである。
ここで、沖田修一監督のこと。
沖田修一監督の映画は、「キツツキと雨」(2011年製作)と、本作の2本しか観ていないのに、分ったようなことは書くたくないが、少なくとも、この2作品と監督インタビューの言葉などを通して受ける、私の率直な印象を言えば、以下に言及する4点によって、私は、この若い監督の技量を非常に高く評価している。
その1 基本・コメディラインの範疇であったとしても、林業労働者の置かれた社会的状況の厳しさとか、「ニワトリ症候群」(注)と言われるほど、「共食文化」の顕著な劣化による現在家族の様態など、幾らでも社会派的なメッセージを被せた映画を作るのができるのに、この2作品には、そんな暑苦しいベタなメッセージが入り込む余地が基本的に排除されていたということ。
その2 両作品とも、主要登場人物の「別離の感動譚」を確信的に削り取っている点に象徴されるように、基本・ハートウォーミング系の作品であるにも拘らず、観る者の姑息な感動を狙った、あざとい物語構成を擯斥(ひんせき)していること。
その3 基本・コメディラインの範疇で、日常会話と映像だけで見せることで、気障なだけの「決め台詞」の挿入を潜り込ませなかったこと。
その4 俳優たちの自然な演技を引き出すために、アドリブを許容したであろう巧みな演出によって、役に成り切った俳優たち一人一人の個性を、存分に際立たせる力量が印象づけられること。
とりわけ、個性の異なった男たちによって構成される、本作におけるキャラクターを演じる俳優たちが、皆、伸び伸びと身体疾駆している人間模様を見せられて、それこそが本作の生命線であったと言える。
俳優たち一人一人が自給し得る力量の、その「最高表現力」を引き出す演出能力の一端が垣間見られ、次回作を楽しみにできるような映画監督の出現を歓迎したい思いである。
(注)「この言葉は、子どもの間に広まっている孤食・欠食・個食・固食(または粉食)という4つの食習慣を総称する。以上の頭文字をつなぎ合わせるとコケッココ(孤欠個固)となる」(日経BPネット)
2 隊員たちの日常の風景 ―― そのオフビート感の切れ味
ブリザード吹き荒れる冒頭のシーン。
逃げ出す若い隊員と、それを追う二人の隊員。
「どこ行くつもりなんだ。逃げ場なんか、どこにもないんだよ!」
「もう、嫌なんですよ。勘弁して下さい!」
「甘ったれてるんじゃねえよ!いいか、お前はな、俺たちの大事なメンバーなんだよ。 お前が強くなるしかねぇんだよ!」
そう叫んで、寝転んだ隊員を起こし、抱きあげ、抱擁する。
「やれるな?」
頷く若い隊員。
「よし!やれるな、麻雀」
そう言って、笑みを浮かべる中年隊員。
因みに、ここで逃げ出した隊員の名は、大学院生である、雪氷サポート・兄やん。
抱擁した男の名は、雪氷学者である本(もと)さん。
そして、次のシーンが、「中国文化研究会」という赤い横断幕の前で、麻雀卓を囲む4人の隊員たち。
当然、その中には、先の二人が、まるで何もなかったかのように麻雀を楽しんでいるのだ。
コメディライン全開の上手い導入である。
合計8人で構成される南極隊員の他の3人は、映りが悪いテレビを見ていて、「もう少し静かにして」などと、雀卓を囲む連中に頼み込む。
実に自然な風景だから、こういう何の変哲もない台詞だけで、私は吹き出してしまう。
ここにいるのは7名で、他の一人は、海上保安庁から派遣された、調理担当の西村。
以下、その西村のナレーション。
「ここ、ドームふじ基地は、沿岸部にある昭和基地から、およそ1000キロも遠く離れた内陸の山の上に位置する。平均気温、マイナス54度。標高は富士山より高い、およそ3800メートル。ペンギンやアザラシはおろか、ウィルスさえ生存できない極寒地。気圧は低く、日本のおよそ6割程度。何をするにも息が切れる」
氷床から取り出された筒状の氷の柱である、氷床コアの採取を目的にする「氷床深層掘削計画」のが実施こそ、ドームふじ基地の主要任務である。
それによって、過去約100万年間の気候変動が判明するものと期待されているが、この辺りについては、雪氷学者である本(もと)さんが、彼を手伝う西村に説明する描写があった。
「やりたい仕事がさ、たまたま、ここでしかできないだけなんだけどなあ、ここがさ、電車とかで通えれば良かったのにね」
これは、心配する妻の反対を押し切ってまで南極にやって来た本さんが、苦渋の表情で西村に吐露した言葉だが、仕事に厳しく熱心な雪氷学者の心象風景が窺える。
だからこそ、大学院生である、雪氷サポート・兄やんの逃亡事件で、熱くなった彼の行為が、「よし!やれるな、麻雀」という、オフビートのジョークに収斂されてしまうレベルの問題では済まないことを確認できるだろう。
本さんの仕事の重要度を、他の隊員たちも認知しているが、各自、掛け替えのない任務を負っているが故に、敢えて話題になることもない。
但し、仕事への執着の度合いで温度差があることも事実だから、隊員たちの人間関係の交叉の中で、許容し難い確執が生れるのもまた必至だったという訳である。
ここで、8人で構成される南極隊員を紹介しておこう。
まず、その本さんは、国立極地研究所から派遣された雪氷学者。
その本さんの仕事をサポートするのは、先の大学院生・兄やんで、彼の失恋譚は、コメディラインの物語の中で、最も光っていたと言っていい。
そして、本さんと同様、国立極地研究所から派遣された大気学者が平さんで、目立たないが、後半に、狂気とも思える馬力を発揮する。
通信社から派遣された通信担当・盆さんは、滅法、明るいが、食い意地が張っている性向が、しばっしばトラブルメーカーにもなってしまう人物。
しかし、トラブルメーカーの筆頭は、何と言っても、自動車メーカーから派遣された、車両担当の主任で、その協調性がない態度の根柢には、南極隊員として派遣された事態を「左遷」と漏らす不満がある。
そして、気象庁から派遣された気象学者・タイチョーは穏健だが、「僕の体はラーメンでできているんだよ」と公言するほど、麺とスープに眼がない人物で、ラーメンが底を打ったときの落胆ぶりは、物語で拾い上げた重要なエピソードに変換されていた。
隊員たちの心のケアも担当する、北海道の私立病院から派遣された医療担当のドクターは、明るく包括力のある好人物で、南極生活に最も愉悦していて、何と、トライアスロンに挑戦するために、裸でマウンテンバイクに乗って練習するほどの気合の入り方(この夢は帰国後、実現するシーンあり)。
そして最後は、皆から、「西村くん」(大学院生だけは「西村さん」)と呼ばれる、本作の主人公の「南極料理人」・西村。
事故を起こした海上保安庁の先輩に代わって派遣されたが故に、家族の心配をひしと感じていて、生意気盛りの娘の小学生の乳歯をお守り代わりにするほど、家族思いの好人物。
西村を除いて、一癖も二癖もあるそんな連中の日常は、朝の洗面所から開かれる。
「雪はあるが水はない」
この張り紙を前にして、洗面所で、歯磨きや髭剃りの順番を待つ隊員たち。
このスペースには、トイレがあり、そこで大便する隊員がいる。
「見るな!」
一喝する本さん。
半ドアなので、眼が合ってしまうのだ。
「見ると、出ないからね」と隊長。
そう言いながら、皆で眺めている。
本さんが笑みで反応する。
無事、排便を完了したのである。
他の隊員たちも笑顔になる。
そして、体操のビデオでの、赤いレオタードの若い女性たちの動きに合わせながら、「お~!」という歓声を上げ、「赤いっていいね」などとニヤつく隊員たち。
もう、笑いのツボを刺激するのに、充分過ぎる構図である。
朝の体操の後、食卓でのミーティング。
その日の任務を、各自が報告し合うのである。
その後、それぞれ任務に出る隊員たち。
ここで、西村のナレーション。
「一人の人間が、一年で飲み食いする量。およそ1トン弱。食材がないからと言って、近所のスーパーに走ることはできない。食材は全て、冷凍、乾燥、缶詰が基本。凍ったらダメになるこんにゃく類は持ってきていない。低気圧のため、お湯は85度と、やや低い温度で沸騰する。麺などはそのまま茹でると、芯が残る。せめて野菜を育てることができないかと、様々な種を持ち込んでみたものの、できるのはカイワレやモヤシばかりだ」
「南極料理人」の仕事の苦労を紹介するナレーションだが、ざっとこんな調子で、たっぷりと笑いの詰まった、隊員たちの日常の風景がスケッチされていく。
(人生論的映画評論・続/南極料理人(‘09) 沖田修一 <美食の本質は「不在なる食」との再会の欣喜にあり ―― メッセージコメディの傑作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/03/09.html