光のほうへ(‘10)  トマス・ヴィンターベア <色褪せてくすんだ映像で匍匐する兄弟の遣り切れないほどの切なさ>

イメージ 11  「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命
 
 
 
本作のあとに創られる「偽りなき者」(2012年製作)と同様に、本質に関わらないエピソードを大胆に切り捨てて構成された映画の切れ味は出色であり、映像総体の訴求力は抜きん出ていて、俳優・演出ともに素晴らしく、正直、落涙を抑えるのに苦労したほどである。
 
紛れもない傑作である。
 
3人の主要登場人物の内面風景に近接してしまえばしまうほど、そこで醸し出されるどうしようもない切なさの感情は筆舌に尽くし難かった。
 
人間心理の奥深くに肉薄する精緻で、構築的な映像の独壇場の世界に脱帽する。
 
「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命から免れ得なかった男と、その男の「守るべき者」との出会いによって、中途半端な堕ち方で絶望の際(きわ)を這っている男の、その中枢を変容させていくイメージで閉じる人間ドラマの秀作。
 
これが、本作に対する私の基本的理解である。
 
中枢を変容させていくその男の名は、ニック。
 
「シェルター」(一時的な生活保護施設)暮らしで呼吸を繋ぎながら、アルコールを摂取し、ジムで肉体を鍛えているが、笑みの拾えない男のイメージからは、自らの身体を痛めつけることそれ自身が目的化しているようにしか見えない。
 
それは、不満の捌け口を、公衆電話に繰り返し拳をぶつけて、手ひどい怪我を負った自傷行為のエピソードに象徴される。(この自傷行為についての言及については、本稿の肝になるので後述する)
 
そのまま放置しておけば、傷口が化膿して壊死してしまうのだ。
 
包帯を替えるだけで、手当てを施す様子なく、それでも構わないという荒れた感情が、彼の心の中に垣間見られる。
 
包帯を替える度に傷の膿が爛れ切っている現実を、なお放置する男の心は、自死に向かう意思というよりも、まるで、死神の迎えを待っているかのようなのだ。
 
人生に明瞭な目的を持ち得ない空洞感が漂流している風にも見える。
 
ニックを愛する女がいない訳ではない。
 
現に、息子を失ったことが原因で別人格になったような、ソフィという同じシェルターの隣人に愛されていて、心配もされている。
 
しかし、暴行罪で刑務所に入っていたニックの心の風景には、最も愛したはずのアナという女性と別れた孤独感、虚無感が広がっている。
 
「妹に捨てられ、ヤケになり、知らない男に暴力を振った」
 
街で偶然、チンピラたちに暴行され、倒れていたアナの兄・イヴァンと再会したときのイヴァンの言葉である。
 
ニックには、アナだけが救いだったのだ。
 
ところが、アナはニックを捨てて、行方をくらました。
 
アナがニックとの子を妊娠し、その出産を心待ちにしていたニックの願望と切れて、彼女は人工中絶してしまったのである。
 
ニックにとって、子を育てることは、特別の意味を持っていた。
 
「我が子」という名の、「守るべき者」の「父」に成り得なかったニックの心の闇は、いよいよ広がっていくばかりだった。
 
一方、「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命から免れ得なかった男の名は、不詳である。
 
不詳だが、一貫して「ニックの弟」とか、「マーティンの父」という呼ばれ方をしている。
 
この辺りについての言及についても後述する。
 
ニックの弟は妻を交通事故で喪い、今は、幼稚園に通う一人息子のマーティンとの父子家庭を結んでいた。
 
しかし、喪った妻共々、薬物依存症の泥沼に嵌っているニックの弟は、家庭内でトイレを利用して薬物を摂取する生活を常態化していた。
 
その常軌を逸した風景の意味を理解するマーティンは、父に空腹を訴えた際に、「トイレに行くからテレビでも見てろ」と言われ、「サンドイッチを作る」という父の反応に対して、「やっぱりいいよ、トイレに行って」とまで答えるのだ。
 
幼稚園児がこんな余計な心配をする分だけ、本来、伸び伸びと開放系に駆動する子供のエネルギーが、閉鎖的に結ばれる父子関係での、安定的な愛情の確保に向かう熱量に吸収されてしまうのである。
 
空腹を我慢してテレビに見入る子供は、父からの愛情確保のために、こうして抑圧した自我を作り上げていく。
 
そんなマーティンにも、子供ならではの自尊心がある。
 
幼稚園の弁当を友人から分けてもらえと、父から言われたときのこと。
 
「嫌だ!今日だけじゃないもん!こんなの、もう嫌だ!」
 
そう叫んだ後、嗚咽するマーティン。
 
自尊心があるのは、子供の自我が致命的な損傷を受けていないことを意味する。
 
それは、否定的メッセージを一方的に刷り込まれれて育っていない証左でもあった。
 
金のために強盗に押し入る愚かな父親でも、マーティンの自尊心を傷つけない限りの愛情をたっぷりと注いでいたのである。
 
ニックの弟にとって、マーティンだけが唯一のアイデンティティだったからである。
 
その事実を切り取ったエピソードがある。
 
生活保護を担当するケースワーカーからも憂慮され、厳しく指摘されたときのこと。
 
「夫婦共に薬物中毒だったと?あなたは今も?」
「絶対にありません」
「顔色が悪いようですが。事は重大なんですよ。育てられないなら、息子さんを引き離さざるを得ません。それと生活保護ですが・・・」
「もう、いいんです。何とかなりますから」
「3日分なら前払いできますので」
 
ケースワーカーの申し出に対して、ニックの弟はきっぱり言い切った。
 
「俺には息子しかいない。大切なのは息子だけなんだ」
 
この心情には嘘がない。
 
だからこそ、「守るべき者」を持ちながら、堕ちて、堕ちて、堕ちていく運命が余計に切ないのだ。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/光のほうへ(‘10)  トマス・ヴィンターベア <色褪せてくすんだ映像で匍匐する兄弟の遣り切れないほどの切なさ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/06/10_18.html