思秋期(‘10) パディ・コンシダイン <悲哀と絶望を直視して、中年男女の心的行程の様態をシビアに切り取った人間ドラマの傑作>

イメージ 11  荒れる男 祈る女
 
 
 
この日もまた、男は荒れていた。
 
ノミ屋で大敗したストレスが炸裂し、あろうことか、愛犬を蹴り殺してしまうのだ。
 
悔いても、いつも遅い。
 
身体反応としての情動が一気に噴き上げ、不快な感情の集合が不必要に炸裂し、攻撃的行動を抑制できないのだ。
 
そして、一過的な情動反応が沈静化した後、人間らしい理性系の一端を復元させて、今度は自己を責め抜く感情に苛まれる。
 
男は愛犬を胸に抱き上げ、土を掘り、埋葬した。
 
炸裂と埋葬。
 
この繰り返しである。
 
外部に向かった男の攻撃性が中和化されるとき、その攻撃性が反転し、自分の内側を襲っていく。
 
男の情動反応もまた一過的なものであり、そのサイクルをリピートするばかり。
 
それでも、危機を前に寸止めできる。
 
寸止めできるから、自壊するギリギリの際(きわ)で留まる。
 
この映画の最も重要なポイントだが、男は「殺意」をもって暴行に走る行為に流れないのである。
 
この心理については、映画の肝なので後述する。
 
ともあれ、この男の性格傾向を見る限り、「衝動制御障害」とも称され、攻撃的行動を突発的に剥き出しにして、周囲の者・物に当り散らす「間欠性爆発障害」のように印象づけられるが、ここでは勝手なラベリングは止めておこう。
 
そんな危殆なる男の性格傾向の特徴的様態が、典型的に体現されたエピソードがある。
 
その日もまた、懲りずに、男は荒れてしまった。
 
パブのビリヤード場で深酒する男は、パキスタンの若者たちの下品な会話を耳にして、いつものように炸裂する。
 
彼らに暴行を加え続けるが、これ以上暴走すると、相手を殺害する危うさを感じ取った瞬間、男の行動はピタリと止まった。
 
その足で、町を足早に彷徨し、イギリス国内で定着しているチャリティーショップ(寄付を受けた物品を販売する店)に入り込み、その衣服のハンガーの裏に小さく蹲(うずくま)ってしまうのだ。
 
その店の女主人が同情し、男のために祈りを唱える。
 
嗚咽する男。
 
それだけだった。
 
些か厄介な男が、男の自宅前で待ち伏せしていた、例のパキスタンの若者たちに襲撃されて、朝まで倒れていたが、覚醒した後、顔に目立つ傷を残す男が身を寄せたスポットは、男のために祈りを唱えた女の店だった。
 
ところが、男にお茶を出し、「神の愛」を説いて、優しく接触する女の言葉に嘘臭さを感じ取った男は、散々、悪態をつく。
 
「あんたみたいな連中は偽善者だ。チャリティと称してケーキを焼き、魂を救う。世の中の辛酸をなめたこともないくせに」
 
子供がいないことを聞いて、「旦那は種なしか」などと、一方的に決めつけるのだ。
 
女の涙が、そこに捨てられていた。
 
「何、やってる。俺はバカか。どうかしている」
 
そう言って、パブで自分を責めるジョセフ。
 
自己修正力のギリギリの辺りで、情動反応を一過的なものに留めているのだ。
 
一方、男に袈裟切りにされた女は、帰路、子供が遊ぶ姿を眺めていた後、自宅でワインを飲んでいた。
 
何気ない風景だが、これらの事象が内包するネガティブな風景が顕在化するのは、物語の彩色が、もう少しくすんでからである。
 
男の名はジョセフ。
 
女の名はハンナ。
 
この映画は、この二人の中年男女の出会いを通して、悲哀と絶望を直視して、相互に変容していく心的行程のリアルな様態をシビアに切り取った人間ドラマである。
 
 
 
2  甚振る男 怯える女
 
 
 
翌日、謝罪に行くジョセフ。
 
ジョセフの謝罪を受容したかのように、一緒にパブに行くハンナ。
 
しかし、ハンナに笑顔が見られない。
 
笑顔が見せないハンナが、今度はジョセフへの発問者になっていく。
 
「家族は?」
「いない」
「誰かいるでしょ?」
「親友はガンで死にそうだし、愛犬は殺しまったし」
「殺した?」
「アバラを蹴ったせいでな」
「なぜ、蹴ったの?」
「ノミ屋でイラついた。八つ当たりだ」
 
こんなジョセフの話の内容に不快な思いを隠せなかったハンナが、愛想笑いを見せたのは、如何にも、英国の下層階級を象徴するような、ノミ仲間のトミーの下品な話を耳にしたときだった。
 
元より、ハンナを訪ねたジョセフの本来の目的は、ガンで死にそうな親友への祈りを依頼すること。
 
敬虔なクリスチャンのハンナには、自分を傷つけたジョセフへの許し難さが残っていても、この依頼を拒絶する道理がない。
 
かくて、末期ガンの病人の前で、真剣に祈りを繋ぐハンナ。
 
その姿を凝視するジョセフ。
 
印象深いカットだった。
 
また、物語の重要な伏線となるエピソードがあった。
 
ジョセフが愛犬を思い出したくないために、犬小屋をハンマーで壊しているときだった。
 
ジョセフに懐いている、近所に住む少年サミュエル(サム)の母の愛人が、より獰猛な性格に調教した犬を使嗾(しそう)し、ジョセフの行為を止めさせようとして、一触即発の空気になった。
 
「いい犬だ。お前は悪くない」
 
ジョセフはそう言って、ハンマーを下ろしたのである。
 
自らが殺した愛犬を思い出したために、攻撃性が萎えてしまったのだ。
 
「それでいい。腰抜けめ」
 
その愛人の捨て台詞だったが、このときのジョセフの心情が理解できないが故の、一端(いっぱし)の勝者気取りだった。
 
このときのエピソードも含めて、末期ガンの病人の前で祈りを繋ぐハンナを凝視するシーンに象徴されているように、彼女との出会いの中で、暴力に振れる攻撃性が見られなくなったジョセフにとって、いよいよ、ハンナの存在価値の比重が増しつつあった。

 
それ故に、ハンナの顔の傷を視認したジョセフには、ハンナの存在が「気になる人間」と化していく。
 
 ハンナの顔の傷。
 
 それが、彼女の夫・ジェームズのDV(ドメスティックバイオレンス)に起因するという事実は、物語の半ばで明らかにされる。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/思秋期(‘10) パディ・コンシダイン <悲哀と絶望を直視して、中年男女の心的行程の様態をシビアに切り取った人間ドラマの傑作>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/07/10.html