1 山下ワールドへの「原点回帰」のミニマリズムの逸品
少し古いが、「大学解体」をスローガンにした全共闘時代を描いた、ユーモアの欠片も拾えない「マイ・バック・ページ」(2011製作)の映像化には、正直、驚かされたが、一貫して、「綺麗事」、「情緒過多」、「説明過多」といった「日本映画病」に罹患していない山下映画の新作は、山下ワールドへの「原点回帰」のミニマリズムの逸品だった。
「休眠打破」という、勇ましいイメージではない。
長きにわたる低温に耐え切った花芽が、気温上昇と共に休眠から覚め、成長した花芽を一気に開いていく。
少なくとも、タイトルロールにもなったタマ子のイメージは、この「休眠打破」という、新たな季節に向かって自己表現していく「植物革命」のそれではない。
いつものように、取り上げる価値もない技巧的小細工を弄(ろう)さず、充分過ぎるほどの「間」を取りながら切り取られたカットの多くに無駄がなく、それぞれが独立系の「絵」になって、シンプルに絡み合う集合的様態が醸し出す可笑しさは、殆ど代替不能な、際立って個性的な映像に結ばれていた。
2 父と娘の、隠し込まれたモラトリアムの風景の軟着点
「ダメだ、日本」
テレビのニュースを見ながら、仏頂面で食事するタマ子の分ったような愚痴に、父の善次が、堪えてきた感情を吐き出していく。
「お前、どこか体、悪いのか?」
「別に・・・」
「少しは就職活動してるのか」
反応しない娘に、苛立ちを隠せない父の情動が炸裂する。
「お前、何で大学行かせたと思ってんだよ!卒業しても、なーんにもしないで、喰って寝て、漫画読んで。日本がダメなんじゃなくて、お前がダメなんだよ!」
ここまで言われて、タマ子の表情が変わった。
最も気にすることを言われたからである。
「そのときがきたら、動くよ、私だって!」
「いつだよ!いつなんだよ!」
炸裂し合う父と娘。
「間」ができる。
「少なくとも・・・今ではない」
彼女なりに、語尾に込めた反発の感情で自己主張する意思を結んでいく。
睨みつけるだけの父の表情には、やり場のない気持ちが置き去りにされた者の、不随意的な震えが走っている。
父と娘の炸裂があって、晩秋の風景は最も厳しい季節にリレーされていく。
彼らの日常性には特段の変化は見られないが、人間関係の出入りが、タマ子のモラトリアムに微風を当てていく。
「私もどっか行こうかなぁ」
離婚した母が、会社の慰安旅行でバリ島に行くという情報を得たときの、タマ子の反応である。
結婚した姉の帰省で、その年のいつもの季節は、呆気なくを閉じていく。
美容院で、髪を切るタマ子。
季節は陽春になっている。
履歴書を書いているタマ子。
「ね、服買いたいんだけど」と娘。
「なんな?」と父。
「ちゃんとしたやつ。・・・面接用」
「うん…いいよ」
それだけだったが、父の心は、誰かに言わざるを得ないほど高まっていた。
「ようやく、その時が来たかな」
期待含みで、知り合いの僧侶に洩らす父。
「あんた、これ、絶対誰にも言っちゃダメだからね」
買ったばかりの服を着て、帰郷のとき以来、親しくなった写真館の息子・中学生の仁に写真を撮ってもらうタマ子。
タマ子の就活が開かれたのである。
経験則がそうさせるのか、他言無用という辺りに、「就活敗者」を恐れる心理が垣間見える。
他人の目を気にして、写真館を後にするタマ子の自我には、不透明な未来が不履行に終わる不安感が張り付いているようなのだ。
「就活敗者」の負荷意識に関わる世代間ギャップのバリアがあって、この心理が読めない父との衝突は不可避だった。
「幾らしたの?ね、返して来て。いらない。返して来て」
娘の未来を、ポジティブに予約する父が買って来た高級時計のことだ。
「就活敗者」を恐れる心理が、それに関わるエピソードの中で、情動炸裂に結ばれた季節だった。
芸能界入りを目指したと思われるタマ子の秘密が露見しても、存分に慰撫する父。
そういう「完全受容の抱擁力」こそ、タマ子の自立走行の障壁であることを、彼女自身が最も鋭敏に感受しているから、心地良い訳がない。
そんな心地悪さの残像の中で、この年の春が閉じていく。
甲府の夏は暑い。
タマ子が父の縁談話を知ったのは、夏の暑い盛りの父の兄の家だった。
「タマちゃんだってなぁ。ずっと実家にいる訳じゃないんだし」と義父。
「そうよぉ。善ちゃんにちゃんとした人できたら、タマちゃんだって、安心しておウチ出ていけるじゃない」
叔母のよし子のフォローは、タマ子のモラトリアムに小さいが、しかし確かな風穴を開けていく。
「どんな人?」とタマ子。
「別に。いいよ、そんなお前」と父。
「まぁ、父さんがって言うより、向こうが父さんを良いって言う訳ないんだから・・・」
その帰路での、アクセサリー教室の先生との父の縁談話が気になるタマ子と、父との短い会話だった。
最後の物言いの中に、父の縁談話の動向が、自らのモラトリアムの様態を浮き彫りにしていくリアリティを、彼女なりに受け止め、小さな防衛機制を張っているのである。
タマ子が動く。
自らのモラトリアムのリアリティに直結する、父の縁談話の相手を確認するために動いていく。
唯一、会話相手の中学生の仁を使って、アクセサリー教室に行かせ、先生の曜子の「下調べ」をさせる。
美人であるかどうか、それが最も肝心な点だったが、自分で確かめることで、その「不安な予感」が的中したのである。
「一番ダメなのは、私に家出てっけって言えないところですよ。23にもなって無職で、毎日、家でゴロゴロしてるんですよ。私みたいな娘ヤバイでしょ。なのに、ちゃんとしろって、面と向かって言えないんですよ。最近、全然言わないんですよ。父親として失格なんです」
美人の先生と視線を合わせることなく、アクセサリーを作る手を見ながら、ボソボソ話すタマ子。
そのタマ子の話を、笑み含みで聞く曜子。
この話を、「タマ子との共存に満足する父」というイメージで曜子が読み取ったことに、不本意な反応を示すタマ子がそこにいた。
それは、複雑な思いの中で、タマ子が葛藤している心理を示すものだった。
(人生論的映画評論・続/もらとりあむタマ子(‘13) 山下敦弘 <山下ワールドへの「原点回帰」のミニマリズムの逸品>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/07/13.html