まだ壊れていない器に潜む頼りない力 ―― 「氷河が来るまでに」:その心の風景の壮絶さ」

イメージ 1深酒に頼らざるを得ない、不眠の日々を送る男を主人公にした小説がある。


 森内俊雄の「氷河が来るまでに」(河出書房新社刊)である。
 
この小説を、私は二度読んだ。
 
現代文学の中で、私は、底知れぬほど苦脳する男の心の風景を描いた小説を、最も愛好する。
 
こういう文学が、一番、私に似合っている。
 
その精神的背景は違えども、どこかで、強迫観念のように、「人生を無駄にすること」を怖れて、「今、このときの時間」に、内なる意識・感情・情動を集合的に畳み掛けて生きる、現在の私の「病理」に近接感を感じたのだろう
 
「ダダ」と呼ばれる軽鬱の主人公の、その凄まじい病床報告にひどく心を打たれるものがあり、正直言って、他人事とは思えなかった。

 重度の脊髄損傷者になって以来、私もまた、手痛い不眠症者への仲間入りを果たしてしまった。
 
抗鬱剤なしには生活できないほど、私の日常性は、完全に自律性を失った脆弱性を剥き出しにしている。
 
日一日と崩されゆく恐怖の中で、「平生業成」(へいぜいごうじょう)という真宗の言葉によって説明される、「生きている今、救われる」という感覚のみを求めて、辛うじて時間と繋がっているのだ。

 「生きている今、救われる」
 
私の「非日常の日常性」に張り付く観念系の言辞である。
 
「生きている今」、その生命の僅かだが、それなしに時間を繋げない、私の「非日常の日常性」の渦中に救われないと、生きていけないのだ。
 
「氷河が来るまでに」という一冊の文学作品は、そんな私がかつて読んだとき以上に、不眠の現実を持て余している現在、いよいよ近接度が増してきている分、何よりも気にかかる作品になっている。

 不眠と軽鬱に苛まれた一家の主、「ダダ」への家族の理解は信じ難いほど深く、それ故、この小説は「現代家族の危機」を主題にしたものにはならない。
 
果たして、このような家族の復元は、どこまで可能なのかと終始疑問符が解けないでいたが、どこまでも小説は、「ダダ」の内側の闇を照らして止まないのである。

 例えば、こんな記述がある。
 
 「覚悟を決めるとコーヒーを入れた。一方通行の家の前を車が通っていく。そのあとは静かになった。深夜のラジオも聴くつもりはないし、テレビも観たくもない。普段、不眠の夜のために用心をして、ビデオのための録画フィルムは沢山ある。夜明けを待つなどすこしも恐ろしくはないはずだ。読むべき本もある。だが困ったことに気持ちはそちらへ傾かない。ここら辺りに不眠症の罠がある。彼もまた永遠の夜明けを待つ者の一人であろう。しかし平静に待てないのだ。不眠を訴える人間の、眠りへの憧れは他人にはとても分らぬものである。よく眠れば良き朝がある。これを信じる者を、どのようにして、その考えを崩すことができようか」
 
 「ダダ」はこんな生活を何年間も送ってきて、結局、深酒に頼る。
 
しかし、飲酒が過ぎると却って覚醒し、強い薬を服用せざるを得ないのである。
 
 「はじめ、躯(からだ)が温かくなったと感じられた。それから緊張がとける。呼吸が楽であった。おだやかな呟きが聞こえてくる。帰ろう。帰ろうよ。それは昔、よく聴いた歌であった。誰が唄っていたのだろう。(略)ダダは帰りたい、と思っている。みんな揃って帰りたい。帰れるだろう。しかし、どこに?それはいま考えない。考えないですむ。それが薬の魔法である。人はすべて、いつか滅びる。ダダが見上げる空にコウモリ飛んでいる。ひらひら、たくさん飛んでいる」
 
 薬も深酒も止められない「ダダ」は、自らを「壊れかけた器」と捉え、そこからの脱出を彼なりに模索する。
 
そこが、この文学を救っている。
 
彼は充分に苦しんできたし、これからも苦しむに違いない。
 
 「耕すべき大地はまだ残っている。そこへ帰らなければならなかった。(略)間に合うはずだった。そのように信じたかった。しかし、すべては夢で、今又ひとつの夢に踏み込んで行こうとしているのだ、とも思えた」
 
 この哀切だが、なお帰ろうと願う心の吐瀉(としゃ)で、この小説は静かに閉じていく。
 
「ダダ」が耕すべき土地に辿り着けるかどうか、誰も分らない。
 
しかし大切なのは、「ダダ」がまだ自分の耕すべき大地に拘り、そこへ帰ろうとする志を捨てていないということである。
 
そこに一筋の光明があるのだろう。

 彼は「壊れた器」となることを拒み、しばしば断薬を試みる。
 
それを医師に相談すると、一蹴された。
 
「後はせいぜい、2、30年の命、薬を上手に使って、楽しく仕事をなさったらいかがですか」
 
担当医から、そんな言辞を返されて、衝撃を受ける「ダダ」。
 
「ダダ」の衝撃は、私の衝撃でもあった。

 医師の反応は間違ってはいないが、それでも何か大切なフォローが欠落している。
 
それは、「ダダ」にのみ感受し得るものだから、彼は「せいぜい後2、30年」を、「上手に薬を使えば楽しく生きられる」可能性に、その身を委ねる以外にないのだ。
 
それで良いのかも知れない。
 
この少しの解放が大切なのだろう。

 
 少しの解放が、別のエネルギーを紡ぎ出す。
 
そこから新しい世界が開かれていくと信じることは厳しいが、他に為すべき方途がなければ仕方ないのだ。


 
(新・心の風景 まだ壊れていない器に潜む頼りない力 ―― 「氷河が来るまでに」:その心の風景の壮絶さ」)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2014/07/blog-post_29.html