百万円と苦虫女(‘08)  タナダユキ <防衛的でありながらも、ラベリングと闘う「移動を繋ぐ旅」の物語>

イメージ 11  「これからは、一人で、自分の足で生きていきます」
 
 
 
「青春の一人旅」には、様々な「形」があるが、少なくとも、「自己を内視する知的過程」に関わる旅の本質を、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」であると、私は把握している。
 
そして、「青春の一人旅」の目的は、「異文化との交叉」によって自己を相対化し切って、「自己の存在確認と再構築」を果たすことである。
 
しかし、「青春の一人旅」を発動させる契機もまた様々である。
 
「青春の一人旅」に関する私のこの把握から言えば、本作のヒロインのケースは、その風景の内実には相当程度の落差がある。
 
何しろ、本作のヒロイン・鈴子の旅の風景は、「自己を内視する知的過程」とは無縁であるばかりか、「異文化との交叉」によって「自己の存在確認と再構築」を果たす類いの、ポジティブな「攻めていく旅」ではないからだ。
 
従って、鈴子の旅のケースは、当然、「恐怖突入ゼロ」のポジティブな旅ではない。
 
「現実逃避」であるとも言える。
 
ここで私は、斎藤耕一監督の旅の重さ(1972年製作)を思い起こす。
 
「旅の重さ」のヒロインの少女もまた、「現実逃避」が契機になっていたからである。
 
ある日、私は自分の骸骨と向かい合った。骸骨は終始黙ったまま、洞穴のような暗い眼の奥から、絶えず私に微笑みかけた。白い骨の関節が軋(きし)んで、私の手を撫でた私は、自分自身を悩ますこの幻影から逃れるためにも、旅に出たかったの。清々しい空気。見知らぬ土地。旅にさえ出てしまえば、一切が解決するような気がして」
 
これは、「旅の重さ」の少女が、少女の母宛てに書いた手紙の一節である。
 
死への「不安」と「恐怖」をひしと感受する文学少女が、もう、「青春の一人旅」に打って出る以外にないと括って「恐怖突入」したのである。
 
実際、この文学少女のように、そのような発動契機によって、「青春の一人旅」が開かれることが多いだろう。
 
それ故、「青春の一人旅」は重くなる。
 
それは、「青春」それ自身の重さであり、「移動を繋ぐ非日常」の時間の重さであり、そして、その時間を背負う自我の液状化を喰い止めるために集合する、全ての自給熱量の重さである。
 
この「旅の重さ」に耐え切ったとき、未知のゾーンをほんの少し突き抜けて、何かが開かれ、更新されていく。
 
以上の文脈から言えば、「旅の重さ」の少女の旅のイメージと切れているが、本作の鈴子の旅も「恐怖突入」の様相を呈していたことだけは間違いない。
 
だから、鈴子もまた、「旅の重さ」を負荷させるリスクから自由になっていなかった。
 
「これからは、一人で、自分の足で生きていきます」
 
物語の21歳のヒロイン・鈴子は、家族の前でそう言い放った。
 
そのために、100万円を貯めるというのだ。
 
「何で100万が?」
「100万あれば、とりあえず引越せるし。いろんな町に行って、100万貯まったら、その町を出るの」
「何で、そんなことすんの?」
「何となく。姉ちゃんのこと知ってる人、誰も知らない町に行く」
「姉ちゃん、近所の人に、何言われているか知ってる?」
「知ってるよ」
「よく、平気で近所歩けるよね」
「別に、あの人たちに迷惑かけたんじゃないし。何で、近所歩いちゃいけないの」
 
これは、「前科者」というラベリングに負けずに、鈴子の地元で、自分相応のサイズの〈生〉を繋いでいたときの姉と弟・拓也の会話。
 
ここで、鈴子が「前科者」となった経緯を、公判でのナレーションの抜粋から確認しておこう。
 
「被告人は、被害者の所持品を無断で廃棄。この事実に、刑法261条の『器物損壊罪』を適応する。当時、恋人と別れたばかりの被害者の心情を察すると、大切にしていたニンテンドーDSライトなど、所持品のすべてを捨てるという行為は非難に値する。主文。被告人を罰金20万円に処する」
 
要するに、バイト先の友人とルームシェアすることになったのも束の間、その友人が、あろうことか、恋人と一緒の3人のシェアというルール違反を犯したばかりか、その恋人とも別れることになって、結果的に、鈴子とその男とのシェアとなる始末。
 
そんな中で、鈴子の部屋に迷い込んで来た子猫を男に捨てられてしまったことに激怒し、男の荷物を全部捨てた鈴子が罰金刑を受け、「前科者」となったという顛末である
 
因みに、鈴子の場合、刑事告訴された結果、20万円の罰金刑を受けているので「前科者」になるが、但し、刑事訴訟法第461条によって、「100万円以下の罰金又は科料を科しうる事件であること」に該当するから、「略式手続」になる。
 
従って、検察官の他、被告人・弁護人の出席を前提にした公判廷は開かれることがない。
 
だから、公判でのナレーションの挿入は、明瞭に事実誤認である。
 
この国の刑事訴訟法の基礎知識を正確に学習して、商業映画を作って欲しいと思う。
 
物語を進めていく。
 
中学進学を目指す拓也は、学校で執拗な虐めに遭っている。
 
「あんなバカとは、別の中学に行くんだ」
 
虐められて、泣きながら独言する拓也にも、地味ながら芯の強さを印象づける。
 
更に、こんなエピソード。   
 
「前科者」になっったことで、同様に虐めに遭う鈴子は、決して虐めに潰されることのない鮮やかな啖呵を切るのだ。
 
「やってみろ!お前らだって、名誉毀損で捕まるんだよ、ブス!」
 
それを偶然見た拓也は、姉の強さに感嘆すること頻りだったが、普段は大人しそうに見える鈴子が情動炸裂すると、罰金刑を受けるほどの攻撃性を表出する行為に振れていくことが分る。
 
学校で虐められている弟に目視されていることを知らず、凛として自分の言葉と行為によって身体表現できているところを見ると、明らかに、この21歳のヒロインには、このような状況を耐え抜ける強さが、彼女の人格の芯として内化されているのが判然とする。
 
勝気ではないが、自分の律動感で動く心の強さを持っているのである。
 
それでも、この辺りが彼女の限界なのだろう。
 
だから彼女は、「青春の一人旅」を遂行する。
 
それ自体、自分の律動感で動く心の強さなしに踏み込めないのだ。
 
然るに、「旅の重さ」の実感は、一人旅に打って出なければ分らない。
 
その鈴子の旅もまた、一人旅に打って出る行為を通して、初めて「旅の重さ」を感受することで、「恐怖突入」を突き抜けるに足るタフな精神を強化していくのである。
 
 
 
2  「私は無理なんです!前科があるんです!」
 
 
 
「これからは、一人で、自分の足で生きていきます」
 
繰り返すが、これは、ヒロイン・鈴子の「自立宣言」である。
 
しかし、この決定力のある言葉もまた、「旅の重さ」の実感を吸収・内化していく時間の中でこそ、初めて実体化するのである。
 
そんな鈴子の旅は、後述するが、旅の行程で親しくなった大学生・中島に、「自分を探さない旅」と吐露している。
 
「自分を探さない旅」というのは、世間から被された「前科者」という負のイメージ(ラベリング)で搦(から)め捕られ、自縄自縛に陥ることのない辺りにまで、自分の現在の〈生〉を変換させていくための営為であると言っていい。   
これが、「自分を探さない旅」の本質である。
 
この「青春の一人旅」には、一見、「自分探し」を無化し、受動的で逃避的な印象を被せているが、その本質は、極めて防衛的でありながらも、ラベリングに自縄自縛されない〈生〉の構築を志向するメンタリティが内包されていると読むべきである。
 
思えば、鈴子の旅は、他人と濃密に接触することを回避する方向に動いていくという意味で、極めて防衛的な移動を繋ぐ旅であった。
 
「自分を知らない場所への旅」に振れていく彼女の心情は、充分過ぎるほど理解できる。
 
地元での「定着」が臨界点に達したことで、自立する方向を求めながらも、どうしても防衛的な移動の旅の濃度を深めてしまうのは、このような状況に置かれた者が、ぎりぎりのところで選択し得る振れ方だったと言っていい。
 
それが端的に表れたのは、海辺の町での旅の内実である。
 
避けて避けて、避け抜いて、遂に貯めた100万円を持って、新たな「移動」を繋ぐ旅に向かう鈴子は、彼女が働く「海の家」に屯(たむろ)するナンパ男とは無縁な、静かな山麓への移動に振れていく。
 
その意味で、彼女の旅には、当世風の軽走感覚のイメージが付きまとうが、しかし、彼女にしても、このような特殊な旅をエンドレスに延長させていく強靭な意志で固めている訳ではない。
 
少なくとも、自己防衛の「対処療法」として選択した旅であるが故に、どこかで軟着点なしに済まない性格をも内包するのだ。
 
だから、鈴子の意識の見えにくい射程の中に、「定着」への志向性が張り付いていて、当然ながら、移動を繋ぐ旅の人生のうちに自己完結させる、俗世間との関係を絶った「世捨て人」になるつもりもない。
 
その意味で、鈴子の移動を繋ぐ旅本質が、「定着からの戦略的離脱」であると把握することができるだろう。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/百万円と苦虫女(‘08)  タナダユキ <防衛的でありながらも、ラベリングと闘う「移動を繋ぐ旅」の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/08/08.html