マイライフ・アズ・ア・ドッグ(‘85)  ラッセ・ハルストレム <対象喪失の悲嘆と向き合う児童の内面的昇華を精緻に描いた一級の名画>

イメージ 11  容易に癒えない対象喪失の悲嘆の風景を晒す危うさ
 
 
 
私が観た、この監督の作品の中で、紛れもなく最高傑作。
 
主題提起力・構成力、共に問題なく、何よりも優れて映画的だった。
 
あまりに痛々しくも、辛いテーマを感傷に流すことなく、少年の自我の形成過程のうちに収斂させていく物語の訴求力は出色だった。
 
物語は、注意力散漫で、不器用で落ち着きがないために、常にトラブルメーカーになりやすい少年が主人公になっていて、その少年との絡みの中で、ユーモア含みに展開される物語の風景の印象が、まず、観る者に提示される。
 
まもなく、母の重篤な疾病の療養のために、夏休みを利用して、少年は母の弟である叔父の家に預けられる。
 
この叔父が住む小村の風景が、「全身癒しのコミュニティ」という印象を存分に与えてくれるので、観る者は、「予定調和」の柔和なヒューマンドラマというイメージを持つだろう。
 
 果たして、そうなのか。
 
 その辺りの言及を含めた批評が、ここでは重要になる。
 
因みに、この「全身癒しのコミュニティ」の村の住人を、簡単に列記してみる。
 
緑色の髪の少年、サッカーチームやボクシングで活躍する男勝りの少女。
 
他人の土地に東屋(あずま)を作り、そこでコーヒータイムを愉悦する叔父。
 
その叔父の家で、寝たきりになっている老人は、主人公の少年に、内密に下着のカタログを朗読させる趣味だけが生きがいのようだった。
 
 ゴンドラの「宇宙船」を手作りし、そこに子供を乗せて「宇宙旅行」を享楽する究極の趣味人。
 
 一年中、休むことなく屋根の修理をする老人。
 
叔父が勤めるガラス工場では、サーカスの綱渡りを練習し、それを村の住人の前で披歴する愉快な男。
 
そのガラス工場で働く美女は、村一番の芸術家のヌードモデルになり、その美女に「愛の告白」をする主人公の少年を随伴し、「身の潔白の証人」になってもらうのだ。
 
以上、「丸ごと善人」が集合する「パラレルワールド」は、ファンタジーの基本的枠組を形成し、まさに「全身癒しのコミュニティ」の特別なエリアと化していた。
 
しかし、この映画は甘くない。
 
なぜなら、母の重篤な疾病による対象喪失を被弾した少年の悲嘆と、その乗り越えの可能性こそが、この映画の本質的なテーマになっているからである。
 
主人公の少年は、決定的な対象喪失を、物語の中で二度経験する。
 
それは、容易に癒えない、対象喪失の悲嘆の極点の風景を晒す危うさに満ちていた。
 
だから、観ていて、とても辛い。
 
この映画は、「全身癒しのコミュニティ」の奇跡的な浄化力によって悲嘆に向き合う児童の、その最も辛い時間を掬い取ってくれるという「お伽噺」を挿入する。
 
よくよく考えて見れば、母子関係の継続的で、安定的な基盤の脆弱さに起因するだろう、注意力散漫で、幼稚で、落ち着きがなく、一種、ニューロティック(神経症的)な身体表現をも見せる少年の欠点すらも希釈し、浄化させてくれる有難いコミュニティの存在が、     私たちの周囲に常に用意されているとは限らないのである。
 
もし、このような「全身癒しのコミュニティ」が存在していなかったと仮定したら、この少年は、一体、どうなったのだろう。
 
そんなリアルな視線を投入すると、この映画は、とても危うさに満ちた少年の心の危機を逆照射させてしまうのである。
 
 「変な子」と嫌悪される少年の性格特性すらも吸収してしまう、この「全身癒しのコミュニティ」の社会的包摂力を有する腕力がなければ、少年の対象喪失の悲嘆を浄化させることなど、とうてい叶わなかったに違いない。
 
しかし、本作の作り手は、敢えて、物語の陰翳感をユーモア含みで中和させることで、提示した風景の明暗に凹凸を凝着させながらも、限りなく映画的な加工を施すというギミック(仕掛け)を駆使したしたように思われる。
 
「あんたが太陽を持って来たのよ」
 
これは、不安感と寂寥感を抱えて未知のゾーンに踏み入った少年を、偏見視することなく、包容力を持って迎え入れたときの叔母の言葉。
 
少年の欠点を吸収するばかりか、多くの村人たちから暖かく受容され、同年齢期の仲間たちからは、過剰なまでに持て囃(はや)されるような「全身癒しのコミュニティ」の世界が、まるで、少年の心の浄化のために仮構されたと印象づけられるのも事実。
 
だからと言って、村人たちの日常が、「作り物性」に満ちていると決めつけている訳ではない。
 
それどころか、このコミュニティの住人は、これまでもそうであったような日常を繋いでいるだけで、少年の癒しの空間として、胡散臭く、芝居染みた時間を切り取っている風には全く見えない。
 
それでも、この特別なスポットは、この映画の本質的なテーマに収斂される理念系の結晶点であると、私は考えている。
 
だから、この特別なスポットを、良い意味での「お伽噺」と受け止めた方が良さそうなのだ。
 
実際は、このような状況に置かれたときの、対象喪失の悲嘆に暮れる児童期後期の少年の、   そのレジリエンス(自発的治癒力)の困難さこそが印象づけられてしまうのである。
 
それほどまでに、児童期後期の少年の心の危うい振れ具合が、この映画の枢要なバックグラウンドになっていること。
 
この把握を捨ててはならないように思われる。
 
もし、この物語がハリウッドなら、愛犬を殺すことなく、愛犬との奇跡の再会譚によるハッピーエンドで閉じていくだろうが、この映画は、そんな安直な括りを拒絶し、対象喪失の不幸を充分に悲嘆し、その悲嘆に向き合う少年の心の辛さを抉り出す。
 
従って、その詳細は後述するが、この映画の本質を、私は「対象喪失の悲嘆と向き合う児童の内面的昇華」にあると考えている。
 
以下、この問題意識に沿って、本篇を批評していきたい。
 
 
 
2  「元気な時に、ママに色々話せば良かった」 ―― モノローグの苛酷なる心の風景
 
 
 
乳児期における母子関係の絆の重要性を説いた、ジョン・ボウルビィ(英国の心理学者)による「アタッチメント理論」によれば、母子の相互交流の経験を通して、子供の様々な要求に対する母親の受容の様態が、特化された関係の形成的な養育態度を作ると言う。
 
これを「内的ワーキングモデル」と言う。
 
この特化された関係の形成的な養育態度の中で、経験をベースにした心理的な枠組み(スキーマ)が構築されていく。
 
「情動調律」(母子間の情感的な交流)の安定的なキャッチボールなどを通して、充分な愛情に包まれた母子関係が形成されていくのである。
 
「内的ワーキングモデル」の重要性が、その後の子供の自我形成の決定的役割を規定するが、人間の問題は短絡的に把握できない難しさがあるから、「内的ワーキングモデル」の重要性を認知してもなお、決して絶対化し得ないのである。
 
理想的な「内的ワーキングモデル」が形成され、継続されていれば、当該児童は、自らの児童期自我の安定を壊す観念に縛られることなく、存分に、年齢相応な「子供の世界」に没我し得るだろう。
 
 しかし、それが充分に叶わなかったら、その児童はどうするのか。
 
  そんな児童期後期の自我の不安定な心的状況の揺動を、精緻に描いた作品が本篇だった。
 
  ―― 以下、物語を追っていく。
 
主人公の少年の名は、イングマル。
 
体は小さいが、12歳と紹介されているから、思春期に踏み込む辺りで、両親との依存関係から離脱し得ない児童期後期に相当する。
 
「元気な時に、ママに色々話せば良かった」
 
繰り返し吐露される、イングマル少年のモノローグは、その苛酷なる心の風景の反映でもあった。
 
このシーンが、ソフトフォーカスで映し出されることで分明なように、イングマル少年にとって、母親の存在は決定的だった。
 
「僕が好きなのは、ママとシッタン」(モノローグ)
 
シッタンとは、イングマルの愛犬のこと。
 
いずれも、絶対、喪ってはならない存在なのだ。
 
この母子関係の絆の深さは、乳幼児期での、安定的な「内的ワーキングモデル」の所産であると言っていい。
 
そんな少年が、大好きな母親を喪失するかも知れない由々しき事態に見舞われる。
 
結核を患って、寝込んでしまうのだ。
 
「海の男」として、南洋の海に出ているらしい「夫の不在」と、「命に関わる疾病」の甚大な影響で、母親の表情から急速に笑みが失われていく。
 
 船乗りの「父の不在」という由々しき現実が生む欠損感覚を、イングマルの母は、補って余りある存在感のうちに補填していたのだろう。
 
それ故にこそ、イングマルの母の疾病と入院の現実は、イングマルの心の風景を暗欝で、色彩に乏しいくすんだ黒に変色させていく。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/マイライフ・アズ・ア・ドッグ(‘85)  ラッセ・ハルストレム対象喪失の悲嘆と向き合う児童の内面的昇華を精緻に描いた一級の名画>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/09/85.html