そして父になる(‘13)  是枝裕和 <「眼差し」の化学反応 ―― その融合にまで内視する男の風景の変容の物語>

 
Ⅰ  「事故」の発生
 
 
 
これは、「資本主義の戦士」にシンボライズされ、幾重にも層化されたラベリングで武装した、「眼差し」という、格好の非言語コミュニケーションに潜り込んだ男の、その心の風景の変容を精緻に描き切った一代の傑作である。
 
微妙に揺れ動く「眼差し」を的確に表現することを求められた俳優(福山雅治)のハードルが高くなったのは、一連の表現から、「怒号」とか「号泣」といった、極めて分かりやすい身体表現によるカタルシス的軟着点が封印されていたからである。
 
だから、心理描写で埋め尽くされる。
 
是枝監督の独壇場の世界だ。
 
その監督から求められた難しい内的表現力の成否 ―― これに全てがかかっていた。
 
福山雅治は目立たないが、この難しい役どころを、「内発的」(是枝監督の言葉)に演じ切ることに決定的に成就した。
 
それは、「眼差し」という非言語コミュニケーションの表現力の底力を、状況の微妙な落差の中で演じ切る俳優の内的表現力の結晶点だった。
 
素晴らしい俳優だ。
 
素晴らしい演出力だ。
 
是枝監督の一部の作品は、今でもどうしても馴染めないが、この映画は、私にとって、劇場映画デビュー作の「幻の光」(1995年製作)、「歩いても 歩いても」(2007年製作)と同様に、どんぴしゃりのストライクゾーンだった。
 
正直、「眼差し」の振れ幅に翻弄される福山雅治の心理描写が冴え捲って、嗚咽が止まらなかった。
 
―― 以下、詳細な梗概。
 
早春。
 
私立の小学校への「お受験」の入試風景から開かれる家族の、その幸福像を描き出すファーストシークエンス。
 
「今の時代、優し過ぎるのは損だからな」
 
スーパーゼネコンに勤務し、現在、新宿駅西口の再開発のプロジェクトに挺身する、建築設計担当のエリート社員・良多(りょうた)の言葉には、明らかに、自己基準に見合った彼の生き方が垣間見える。
 
このような映像提示は、今や、この国の文化で、ごく普通に共有されているカテゴリーであるが故に、対象を極端に単純化する「ステレオタイプ的認知」の典型であると言っていい。
 
この「ステレオタイプ的認知」の中枢を占有する、「大いなる秩序」の風景の土手っ腹に風穴を開け、瞬く間に、混乱に陥れるカオス的状況が開かれたらどうなるのか。
 
精密に練られて構築されたこの映画は、「ステレオタイプ的認知」に寄りかかってきた「日本版・アッパーミドル」の家庭の、その染色された虚構の相貌性に、人間に関わる様々に厄介な問題の中でも、拍動感脈打つ腹部を急襲し、超ド級の風穴を開けていくシーンを、含みを隠し込みながら、観る者に切っ先鋭く提示してくるのだ。
 
想像の域を遥かに超えた、「新生児取り違え事故」が発生し、有無を言わさず、その当事者に呑み込まれてしまったこと。
 
「不育症」の故なのか、流産のリスクが高い妻との関係の中で、「一児豪華主義」を余儀なくされた環境下で育てた、エリート意識丸出しの良多の一人息子・慶多(けいた)が、血を分けた「我が子」ではない現実を産院からの連絡で知らされたとき、それまで培った「資本主義の戦士」という「最強のスキル」によっても、全く対応できない由々しき事態を招来する。
 
「お受験」に合格した6歳になる一人息子・慶多のお祝いパーティーの夜、両親に挟まれ、ベッド上で遊ぶ慶多の顔を凝視する良多。
 
その「眼差し」のうちに、軽々に言語化し得ない感情が封印されている。
 
まもなく、その父子の生物学的ルーツが明らかにされた。
 
「資料1 野々宮良多 資料2 野々宮みどりと資料3の野々宮慶多は、生物学的親子ではないと鑑定し、結論する」
 
これが、野々宮慶多のDNA鑑定の結果である。 
 
前橋の病院を選んだ妻を責める、夫の良多。
 
「でも、何で気づかなかったんだろう。私、母親なのに」
 
自分を責める妻・みどり。
 
家族の幸福像の破綻を表現するような、ピアノの旋律が物語に溶融していく構成はとても効果的だった。
 
対極的な人物設定を敢えて類型化したようなパターンだが、まもなく、「新生児取り違え事故」の当事者である、前橋で電気店を経営する、相手の斎木雄大(ゆうだい)と、妻・ゆかりと面談する野々宮夫妻。
 
誕生日は同じで、慶多と取り違えられた新生児の名は、琉晴(りゅうせい)。
 
お互いに、子供の写真を見せ合いながら、確認し合う両夫婦。
 
「とにかくこういうケースは、最終的には100%ご両親は、交換という選択肢を選びます。お子さんの将来を考えたら、ご決断は早い方がいいと思われます。できれば、小学校に上がる前に」
 
この事務的な病院側の説明に、「突然、そんなこと言われても」と、みどりは柔らかに反駁する。
 
「犬や猫ならともかく」と斎木雄大(以下、雄大)。
「犬や猫だって無理よ」と妻・ゆかり。
 
気の強そうなゆかりの非難の言辞に対して、実家に帰り、嗚咽が止まらないみどり。
 
3人の子供を儲け、オープンな養育環境を醸し出す斎木一家と落ち合って、野々宮一家が、ショッピングモールで子供中心の時間を過ごしたのは、その直後だった。
 
無邪気に遊び戯れる子供たちを横目にしながら、両家の大人の会話はリアリティに満ちていた。
 
「どんくらい貰えるんやろな、慰謝料って。ヘヘ」と雄大
「大事なのはお金より、どうしてこうなってしまったのかという、真相を・・・」と良多。
「そりゃそうだけどさ、俺だってね、勿論」
「でもねえ、誠意を形にするっていうのは、やっぱり、そういうことになるじゃないですか」
 
武装な夫の傍から、このように、絶えず援護射撃する妻・ゆかり。
 
相手が「金銭」の問題に拘泥する気配を知った良多は、自分の知人である弁護士絡みで、事態に対応しようとする。
 
彼には今、素人の「四方山話(よもやまばなし)」で事態に対処して、徒(いたず)らに時間を浪費するよりも、あくまでも合理的に解決しようとする意思が明瞭だった。
 
ここで言う、合理的に解決しようとする良多の意思の内実は、その心理が理解し得ても、真の子供である琉晴(りゅうせい)をも引き取って、非常識極まる「金銭」の問題で一気に解決しようとするものだった。
 
このとき彼は、都心の超高層マンションに住むほどに経済的に余裕のある自分が育てれば、トラブルにならずに解決できると考えていたのである。
 
その辺りが、両家の知的環境の決定的な相違点だった。
 
 
 
2  「ミッション」の試行
 
 
 
「これは、慶多が強くなるためのミッションなんだよね」
 
父の良多に言い包(くる)められて、生物学的ルーツの違う一人息子の慶多は、父親が一方的に決めた環境の中に潜り込んでいく。
 
土日を利用しての一泊二日の、両家の「子供の交換」が遂行されていくのだ。
 
一度会っただけで相手の何ものも知らない、前橋にある寂れた電気店(「つたや商店」)で、一日を過ごす慶多にとって、まさにそれは「ミッション」だった。
 
電気店を一瞥して嘲弄する、差別視線丸出しの良多の「眼差し」には、ここでも当然の如く、スーパーゼネコンのエリート社員のマインドセット(経験的な思考様式)から解放されていなかった。
 
一方、野々宮家にやって来た琉晴は、「おいしい。おいしい」と言って、すき焼きを貪っている。
 
しかし、6歳になるのに、箸の持ち方が満足にできない態度を見て、それを指導する良多には、電気店への「ミッション」を通して、完璧な箸の持ち方を実行する慶多との養育環境の乖離を、まざまざと知らしめられるに至った。
 
それは、「明日できることは今日やらない」と言い放ち、子供をフレンドリーに育ててきた家族と、どこまでも、「お受験」を目指し、それをクリアした後、このような「日本版・アッパーミドル」の家庭にあって、ごく普通にエリートコースを辿っていくことを当然のように考える家族との相違であった。
 
「子供の交換」という、一見、非常識とも思える行動を淡々と実行することで見えてくる、心地良きイメージに近づくために努力する大人たちの、殆どそれ以外にないと思われる選択肢だったのか。
 
「慶多。このまま、どこか行っちゃおうか?」
「どっかって?」
「誰も知らないところ。遠い所」
「パパは?」
「パパ、お仕事あるからな」
 
これは、最初の「ミッション」で慶多を迎えに行った帰りの電車内での、母・みどりと慶多の、極めて重要な会話である。
 
慶多を手放すことを拒絶する母の心情が、痛切に伝わってくるシーンであった。
 
彼女の心中では、琉晴の生活態度を傍観しながら、養育環境の乖離感の大きさを感受し、仕事をプライオリティー(優先順位)の筆頭にする夫・良多から、今までもそうであったように、学童期に踏み込んでいく琉晴の養育を一方的に委ねられる事態をイメージするだけで憂鬱になっていくのだろう。
 
更に言えば、「倫理的当為」の方が「情」に追いつけない中で、琉晴の産みの母である現実から逃れられないことで、「義務」のみが先行する〈状況性〉の重量感は、劇的に変わる人生を背負う彼女の自我を押し潰してしまうのだ。
 
まして、劇的に変わる人生の内実は、最愛の慶多に対する「背徳的行為」でもある。
 
そんな複層的に交叉する、縺れ合って解決の糸口の見えない絡み合った感情が、みどりの心の振れ幅を大きくしてしまったのではないか。
 
そう思うのだ。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/そして父になる(‘13)  是枝裕和 <「眼差し」の化学反応 ―― その融合にまで内視する男の風景の変容の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/12/13_17.html