1 「私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと」
「抑留キャンプから逃げた時、褒めてくれたわね。多くはキャンプで夫を待ち続けて、逃げそびれた。すぐに助かるって、希望を持ってたわ。だけど待ちくたびれて、女たちは無頓着になり、体も洗わず、ただ寝転がっていた。私は励ましたわ。厳しく、優しくね。だけど、或る晩、雨でワラ布団がボロボロになった。突然、心が折れて、疲れてしまった。疲れ果てて、気力を失った。だから、この世を去ろうかと。その時よ、あなたが浮かんだ。私を探すはず。死ねない」
これは、アドルフ・アイヒマンが、南米で「モサド」(イスラエルの対外諜報機関)によって逮捕され、イスラエルで裁判が開かれることを知った時、亡命先のアメリカで、夫・ハインリッヒと睦まじい生活をしていたユダヤ系ドイツ人・ハンナ・アーレントが、「アイヒマン裁判」の傍聴に行く心理的背景を、かつてのホロコースト時代の恐怖の体験に被せて、切々と訴える本作の序盤のシーンである。
既に、「全体主義の起源」の著者として名を馳せていて、今や、アメリカの大学教授に就任しているハンナ・アーレントが、かって、スパルタクス団を母体とするドイツ共産党の活動家であるが故に、「暗い時代」に戻ることを怖れる夫を説得するには、夫と共有し切れなかったホロコースト時代の恐怖の体験を語るしかなかったのだろう。
そればかりではない。
哲学者でもある、自分自身の深い関心領域での知的好奇心もまた、彼女を動かす推進力になっていた。
しかし、「行くのが怖いの」という、彼女の心情に張り付くトラウマこそが、この行為が「恐怖突入」であることを検証するものになっていた。
1961年のことである。
「私は命令に従ったまでです。殺害するか否かは、全て命令次第です。事務的に処理しただけです。私は一端を担ったに過ぎません。ユダヤ人輸送に必要なその他の業務は、様々な部署が担当しました。私は手を下していません」
「義務と良心の間で、迷ったことは?」
この担当検事の発問に、アイヒマンは答えていく。
「両極に分れてました。義務感と良心の間を行ったり来たりで・・・」
「個人の良心を、やむなく捨てたと?」
「そう言えます」
「“市民の勇気”があれば、違ったのでは?」
「その勇気が、ヒエラルキー内に組み込まれていたらね」
「では虐殺は、避けられない運命ではなく、人間の行動が招いたものだと?」
「その通りです。何しろ、戦時中の混乱期でしたから。皆、思いました。“上に逆らったって、状況は変わらない”仕方なかったんです。そういう時代でした。皆、そんな世界観で教育されていたんです」
「想像を絶する残虐行為と、彼の平凡さは同列に語れないの」
クルトに、ここまで言い切った後、ハンナは、ハインリッヒの待つ米国に帰国する。
「強制収容所とは、いかなる行為も感情も、その意味を失うということです。無意味が生れることとも言えます。全体主義の最終段階で、絶対的な悪が現れる。人間的な動機とは、もはや無関係。だとすると、次も真実です。もし全体主義がなかったら、我々は根源的な悪など絶対に経験しなかった」
「情熱と思考」
これは、若き日にハンナが師事し、愛人だったハイデッガーの言葉。
この言葉に驚きと感銘を持った頃の、ハンナの回想シーンである。
ところが、SA(突撃隊)の理念に共感し、ナチス革命を賞賛したばかりか、ナチス式敬礼を非党員にも強要し、ナチス党員でもあったハイデッガーとの心理的距離は、「一つの民族、一つの国、一人の指導者」というスローガンの下、「社会全体の均質化」を目指した、ナチス・ドイツの根本政策・「強制的同一化」を推進する、フライブルク大学での「改革」の担い手になっていた時点で、ドイツ系ユダヤ人のハンナとの心理的距離は、その絶望感から、ハンナの亡命決意のモチーフになったとも言われる。
それでも、後に、「潜在的殺人者」(ヤスパースとの往復書簡)とまで書いたハンナの、ハイデッガーとの距離感には、「ドイツの稀有な哲学者」の学識の深さへの崇拝の念や、短期間ながらも、愛人関係を持っていた頃の複雑な感情がアンビバレンツとなって尾を引いていたようにも思われるが、実際の所、よく分らないし、映画のテーマとも基本的に脈絡しないので、これ以上の言及は避けよう。
そんなハンナが、今、「アイヒマン裁判」に関する原稿を完成させた。
ハンナの原稿を読む、「ザ・ニューヨーカー」誌の男性編集者。
これは、ハンナの原稿を読む、女性編集者の批判的言辞。
女性編集者は、既に、最初の10ページに書かれている原稿を「挑発」と把握するのだ。
それでも、「ザ・ニューヨーカー」誌の編集長は、ハンナの原稿に理解を示すが、一か所だけ、看過し難い問題点を、ハンナ自身に対して、直截に指摘する。
それは、「ナチに協力したユダヤ人」の問題だった。
この指摘に、全く折れることのないハンナの記事を受容せざるを得なかった、「ザ・ニューヨーカー」誌の連載が始まった。
「1ページにつき、苦情が100件ね」(女性編集者の言葉)と言われるほど、想像を絶するクレームが、「ザ・ニューヨーカー」誌に殺到する。
しかし、ハンナは、「無視すればいいのよ」と言って、全く動じない。
イスラエル当局からの出版停止の恫喝があっても、映像は、ひたすら「思考するハンナ」をフォローしていく。
それでも、イスラエルで、病の床に伏している親友のクルトの下に赴くハンナが、そのクルトから、「イスラエルへの愛はないのか?もう、君とは笑えない」と批判の刃を向けられた時、ハンナは、そこだけは明瞭に言い切った。
「一つの民族を愛したことはないわ。私が愛するのは友人。それが唯一の愛情よ」
彼女には、「愛する友人」を失うことになっても、その友人への愛は、「一つの民族への愛」よりも大切な何かだったのだ。
映画の重要なテーマ一つが、ここにある。
これは、偏狭な民族主義への警鐘であるということだろう。
ラストシークエンス。
学生たちを前にしての、ハンナのスピーチが開かれていく。
「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました。(略)私はアイヒマンの弁護などしていません。彼の凡庸さと、残虐行為を結びつけて考えましたが、理解することと許すことは別の問題です。ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで、人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」
かくて、そこに勝負を懸けた、「一世一代」の長広舌が閉じていった。
広い教室の隅に残っていたハンス・ヨナスに気づいて、ハンナは近寄っていく。
しかし、ハンナと共にハイデッガーの元で、哲学を研究した学徒であったハンスから返ってきた言葉は、意想外のものだった。
「君は変わっていない。君は傲慢な人だ。ユダヤのことを何も分かっていない。だから、裁判も哲学論文にしてしまう。我々を見下す傲慢なドイツ人と同じだ。我々は大虐殺の共犯者なのか?」
彼女が大切にする友人を、ここでもまた、失ってしまった。
それでも、根源的なテーマ思考を捨てない、ハンナ・アーレントという稀代の思索者が、カウチに横たわって、なお思考を繋いでいた。
「思考停止」。
レビューに氾濫するこの言葉に、私は些か違和感を覚えた。
それが、間違っていると言うのではない。
短絡的すぎるような気がしたからだ。
今では、左右両翼から、相手の無能を嘲罵する、「上から目線」のラベリングとして、ネット上で氾濫していることも手伝って、その定義を曖昧にした短絡性に違和感を覚えるのである。
大体、「思考停止」の思考とは何か。
元より、思考とは、人間の知的作用を総称する概念である。
しかし、思考という概念を、経済・社会、自然現象、神経、細胞など生物学分野を含む複雑系や、心理学分野の考察・研究をも包括することで、人間の複雑な感情を包括する心的行程であると把握しない限り、様々な欲望や、その時々の気分、意識、身体状況などが複層的に絡み合っている、私たち人間の心の「分りにくさ」を説明することなど困難であるだろう。
以下、この問題意識で、考えてみたい。
(人生論的映画評論・続/ハンナ・アーレント(‘12) マルガレーテ・フォン・トロッタ<「法」(正義)と「モラル」(道徳的感情)を峻別し、真実に向き合う一人の女性の、その凜とした生き方>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/02/12.html