本篇でも、全く無駄な描写がないからテンポも良く、いつものように感傷を引き摺らず、観ていて感嘆することと頻りであった。
誰一人欠けても成立しない構成力と主題が見事に溶融する物語を、プロの俳優が見事に演じ切る。
全て良い。
プロの俳優の底力を引き出した石井裕也監督の演出力が、ここでも冴えわたっていた。
邦画の生命線を繋いで欲しいと願うばかりである。
―― ここから、物語を追っていく。
その日、若菜玲子は友人らとカフェで歓談を繋いでいたが、彼女の異変は、既に、その会話の中に表れていた。
ハワイの話をしているのに、同じ言葉を何度も繰り返すばかりでなく、自分の話している話題すらも覚えていないのだ。
都内のカフェでの歓談後、中央線に乗り、山梨県三好駅で下車し、自宅に戻った玲子は真っ暗な部屋でぼんやりし、夫・克明の車での出迎えを忘れ、夕飯の支度もしていなかった。
更に、夕飯の準備をしている玲子に、長男・浩介から子供ができたという電話が入り、それを夫に嬉々として伝えるが、そのときも、一瞬、記憶が飛んで、「間」が生れていたが、この時点でも、未だ重篤な疾病の徴候であるとは思いも寄らなかった。
それでも玲子は、「物忘れがひどい」という自覚だけはあって、その事実を、都内の大学に通っている次男・俊平に吐露していた。
しかし、またしても、浩介の妻・深雪(みゆき)の家族との祝いの会食の場で、玲子の物忘れが出てしまう。
「グラプトベリア ファンファーレ」というサボテンの名前を独言しながら、その事実を忘れてしまうのだ。
おまけに、長男の妻・深雪の名を「みちる」と呼ぶ始末。
「家族がバラバラになっちゃうなんてヤダ!」
そこまで露呈した玲子の状態を目の当たりにすれば、さすがの克明も、妻の病院行きを決断せざるを得なかった。
「ここに、白い影があるのがお分かりですか?確認できただけで、影は7つありました。小さいものや、見えないものを含めると、もっとあるかも知れません。これが記憶の神経を圧迫しているのです」
これが、地元の総合病院でのCTスキャンの画像を説明する、専門医の言葉だった。
玲子が叫び声を上げたのは、そのときだった。
「九分九厘、脳腫瘍だと言って差し支えないと思います。腫瘍は、かなりの大きさに達していますので、入院は今日からしていただきます」
一緒に病院に付き添ってきた長男・浩介への、入院を督促する医師のこの言葉に、浩介は恐々と尋ねる。
「余命いくらとか、そんな状況ではないんですよね。治療すれば、治る見込みはあるんですよね?」
医師も、正直に反応する。
「恐らくは、一週間とか、そういった期間が一つのヤマになってくると思います」
衝撃を受ける浩介。
「一週間?それって、あまりに突然すぎませんか?」
「腫瘍はかなりの大きさに達しています」
医師の言葉に反応すべき何ものもなく、その事実を父に報告する浩介。
当然の如く、興奮して、現実を受容することを拒む父・克明。
浩介が、大学で下宿する次男・俊平に留守電を入れたのは、その直後だった。
母の病棟に付き添う浩介は、ナースが点滴処置するときの、腫れを引かせる効能を持つグリセオールとステロイドの名を、逐一、メモにとっていく。
まもなく、中華料理屋で食事を摂っている克明と浩介の店に、些か軽い調子で入って来た俊平に、生真面目な浩介が注意した後、男同士の父子の会話が開かれた。
「お母さんには、病気のことを言うなよ」と浩介。
「隠すの?何で?」と俊平。
「お父さんと決めたんだ。お前は黙ってろ」と浩介。
「ああ見えて、母さん、弱い人だ。言っても、気を落とすだけだから」と克明。
「それに、今のお母さんに言っても、多分理解できない。取りあえずは、明日の検査結果を待つ。それと、俺たちが倒れたら元も子もない。体調管理だけはしっかりしよう」
「やけに気合入ってるね。3人で、円陣でも組んで、エイエイオー!ってやるか?」
病院からの携帯が鳴ったのは、まるで、自分が置かれている状況が読めないような俊平の軽薄な言辞で、まとまりのない父子の空気の濁りを露呈していたときだった。
玲子が病棟で暴れていることを伝える、病院からの連絡だった。
急いで病院に駈けつける3人。
既に、母の暴走が鎮まっていて、俊平に煙草を強請(ねだ)る始末。
元々、煙草を吸うことを知らなかった母の言葉に違和感を感じた浩介は、母を落ち着かせようと近づくや、「あなた、誰?」と言われてしまうのだ。
トイレ行きを頼まれた俊平は、母のトイレに随伴するが、一人、衝撃を受けている浩介の内面が、母のいない病室で澱みを生んでいた。
父を含めて、トイレから戻って来ない3人を心配し、迎えに行った浩介が見たものは、既に、自分の家族に対する「見当識障害」を顕在化している母が、俊平にお喋りを繋いでいる光景だった。
無視された浩介にとって、敬語に切り替わった途端に、家族に対する本音を語り出す母のお喋りの内実は、とうてい無視し難いものだった。
それは同時に、稼ぎの悪い夫の現実を暴露される父にとっても、バツの悪い沈黙を強いられる空気を生み出していく。
言うまでもなく、敬語に切り替わったのは、俊平を認知できなくなったからである。
以下、妻であり、二人の息子の母である玲子の語り。
「あたしには、息子が二人いるんですけどね。二人とも家を出ちゃって、すごく寂しいんです。でも、家のローンはいっぱい残っているから、どうすることもできないし、あんな郊外の家を買うのは、私、本当は反対だったんですよ。ここにお父さんがいないから言いますけどね、お父さん、お金を全然稼いで来てくれなかったの。ハハハハ。会社員のときもそうだったけど、独立してから特に。あたしはパートで働いたんだけど、ほら、浩介が中学の時に引きこもりになっちゃったでしょ。私、少しでもあの子の傍に居てあげたくて、パートを辞めたの。だから、家計はどんどん大変になっちゃった。あの子、虐められていたのかなあ。聞いても何にも答えてくれないし、“うるさい!”って叫ぶこともあった。あのときは、とにかく苦しかったなあ。でも、悪いのは浩介じゃなくて、お父さん。あの人に、一家の主としての自覚がちゃんとあったら、こうはならなかったはず。いつも口ばっかりで、結局、頼りにならない。私の友達はいい服着て、いいバッグ持って、孫も何人かいて、幸せそうで、年に一度は旅行できる。それが本当に羨ましかった。ああ、私も一度くらい、家族みんなでハワイに行きたかった。でもねぇ、私、お父さんと別れたくないの。辛いけど、あの人のことが好きだから」
この、身につまされるような語りを耳にした俊平は、「良かったな、親父。今の、お袋の本音だぜ」と、散々、一家の主として失格の烙印を押された父をフォローした。
フォローされても、この話を聞いていた克明と浩介が、気まずい沈黙を保っていたのは当然だった。
「今日のお袋、すげぇ可愛かったと思わない?濁ってない、つぅかさ、赤ちゃんみたい、つぅかさ、おかしいのは、お袋じゃなくて、むしろ、俺たちのほうじゃね?」
病院からの帰路、浩介に語った俊平の言葉である。
しかし、兄の浩介からの反応はない。
彼にとって、母の語りの内容が真実であることを自覚しているが故に、何も反応できないのだろう。
それは、誰よりも、この夜、最も傷ついたのが浩介であることを露呈するものだった。
「母さんが、タバコ吸いたいってきかないんだけど、どうすればいいと思う?」
病院に付き添っている父から、こんな携帯が入っても、「ダメに決まってるだろ、それぐらい自分で考えてくれよ」などという、ぞんざいな反応しかできないのだ。
その後も、頼りない父親から繰り返し携帯が入って来て、挙句の果ては、入院費の相談をする始末。
これが、父親の本音なのである。
入院費のことが切り出せないから、理屈で分るような問題に託(かこつ)けて、繰り返し携帯を入れてきた父親の性格が、料亭で会食するほどの見栄っ張りであることが判然とするエピソードだった。
それでも、「何とかする」と答える辺りに、浩介の責任意識が垣間見える。
「兄貴が引きこもりになったときから、とっくに、この家族なんて、ぶっこわれてるんだ」
自分一人で家族を背負っているような、そんな浩介の態度に、思わず、家族のタブーとされるような事実を直言した俊平の言葉である。
ここでも、無言の浩介の心象風景には、俊平の直言の事実を認知するが故に、自分の過去への責任意識を引き摺っているように見える。
何より、入院費の問題を浩介が背負う負荷は、生まれてくる子供のために、苦労して貯めた真面目な夫婦にとって理不尽でもあった。
「まだ、バブルの生活、引き摺ってるんだ、あの人たち」
浩介の妻・深雪のこの反応に同意しつつも、自らが置かれた状況の深刻な渦中で煩悶する、若菜家の長男が、そこにいた。
人生論的映画評論・続/僕たちの家族(‘13) 石井裕也<強化された情緒的結合力という、取って置きの「武器」の底力を発揮した家族の生命線>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/03/13_29.html