その夜の侍(‘12) 赤堀雅秋 <捩れ切って完結するグリーフワーク ―― その風景のくすんだ広がり>

イメージ 11  「8月8日 お前を殺して、俺は死ぬ  決行まで、あと二日」
 
 
 
綺麗事を完全に払拭した人間ドラマの傑作。
 
四人の主要登場人物(堺雅人山田孝之新井浩文綾野剛)の心情がダイレクトに伝わってきて、その葛藤描写の痛々しさが、観る者の魂に食らいついてくるようだった。
 
山田孝之の表現力は圧巻だったが、それ以上に再認識させられたのは、堺雅人が性格俳優として秀逸であるということ。
 
堺雅人主演の作品の中でベストの映画。
 
嗚咽を抑えるのに必死だった。
 
―― 以下、梗概。
 
昼間の炎天下で、薄汚れた作業着に身を包み、ポリ袋に包丁を隠し込んだ挙動不審の男が、一人の男を尾行するシーンから開かれる映画の異様な風景の背景は、その直後の映像提示によって明らかにされる。
 
十字路でのドライバーの前方不注意によって、自転車に乗る一人の女性を、トラックが撥ねてしまう事故が発生する。
 
助手席にいた男に、路上に倒れた女性の確認をさせるが、出血していない状況を判断し、救急車を呼ぼうとする助手席の男を止め、必死に自分の責任を回避するのだ。
 
女性の方から飛び出して来たと断定することと、無出血の状態を見て、呼吸の粗い助手席の男と対照的に、「サバ味噌の匂いがする。今日、どっかの家サバ味噌だな」などと強がりを言ってみせるのである。
 
その心理は、自らの恐怖感を感覚鈍磨させることで、助手席の男に弱みを見せまいと虚勢を張っているように見える。
 
「8月8日 お前を殺して、俺は死ぬ  決行まで、あと二日」
 
唐突に挿入される、このキャプションの意味も、まもなく明らかにされる。
 
冒頭のシーンの男が、留守録に残る妻の声を聞きながら、プリンを食べている。
 
「健ちゃん。ちょっと、また隠れてプリン食べてるんでしょ。バレてるんだからね。ほんと、いい加減にしないと死んじゃうからね。冗談抜きで」
 
これが、東京の小さな鉄工所を経営する中村健一の妻・久子の声。
 
その妻・久子こそ、5年前にトラック運転手に轢き逃げされた女性である。
 
今、その妻の対象喪失の悲嘆から解放されていない夫・中村健一は、傍らに遺骨を置き、妻の着衣の匂いを嗅ぎ、繰り返し、留守録に残る妻の声を聞くことで、亡妻との「精神的的共存」を常態化しているのである。
 
「私は、あなたと結婚できるような、そんな男じゃありませんので。申し訳ありません」
 
だから、妻の兄である中学校教員・青木が紹介する同僚の女性・川村との、場末のカラオケスナックでのお見合いの場で、薄汚れた作業着を着た中村が、ポケットから妻のブラジャーを取り出し、こんな失礼な物言いをするのだ。
 
一方、中村の妻・久子を轢き逃げしたトラック運転手(当時の職業)・木島は、同乗していた助手・小林が妻と住む団地の一室に寄食していた。
 
あろうことか、その木島は、タクシー運転手である小林の同僚・星に粘着テープを張り、体を縛りつけ、轢き逃げ事件のことを世間で言い触らしていると決めつけ、激しいリンチを加えている。
 
挙句の果てに、灯油をかけ、ライターの火を近づけることで、星の「自白」を得るや、玄関のチャイムが鳴ることで、このリンチは中断されるに至る。
 
リンチを加えつつも、唇が震える弱みを隠す木島の「悪」が、明らかに、「極道」の面々との差異を露わにすることが判然とする。
 
その辺りに、玄関のチャイムによって、一瞬にして興醒めしてしまう男の心の風景が垣間見える。
 
何より、小林の自首によって轢き逃げ事件が露見し、そのため2年の懲役刑を受け、出所後、タクシー会社で研修中の木島にとって、会社を馘首される不安を拭えないのだ。
 
玄関のチャイムの主は、轢き逃げされた久子の兄・青木だった。
 
一か月前から、毎日送られてくる脅迫状の主が中村であると断定する木島が、青木を呼び出し、その行為を止めさせるように恫喝し、100万の金と、中村自筆の詫び状を持って来ることを約束させるのである。
 
青木の、このあまりに脆弱な反応の意味を考える時、ごく普通の人間がそうであるように、「平凡な日常性」に罅(ひび)が入ることを怖れる心理の延長上にあり、そんな「平凡な日常性」の対極にある日々を繋ぐような、理不尽極まる木島の暴力性に正当に逆らえないのは必至だった。
 
加えて、犯行予告という行為が「偽計業務妨害罪」(刑法第233条・3年以下の懲役又は50万円以下の罰金)であることを知悉するが故にか、それが警察沙汰になることで、公務員である自分の立場が不都合になる事態を案じているのだろう。
 
当然過ぎる反応である。
 
同時に、ハッタリ含みの木島の暴力性もまた、弱さを見せる者たちへの限定的な反応形成であり、このような形でしかコミュニケーションを結べない男の適応力の脆弱性が露呈されていた。
 
要するに、自ら出向く行為を選択できないほどに、中村健一の殺意の「本気度」を怖れる本音が、青木への恫喝によって反転させているのである。
 
こんな男だから、交通整理する女性警備員のバイトの財布を奪い、その引き換えに、自分の性的欲求を満たす行為に走るのは日常的だった。
 
ここで重要なのは、自分より弱い立場にある者たちだけを甚振(いたぶ)ることで、好き勝手に生きる時間を延長させてきた底層に澱む、現実原則(損得の原理)で動けない男の未成熟な自我の、その振れ幅が大きい心の風景の人間的脆弱性に対する基本的把握である。
 
こういう男は、「ハインリッヒの法則」(1件の重大な事故には、300件の「ヒヤリ・ハット」が発生している)を援用すれば、不祥事を繰り返すことで、自らが受けるリスクの危険性を高め、その度に人生をやり直すチャンスを自壊させていくパターンをトレースしてしまうのだ。
 
その一つの例が轢き逃げ事件であり、その延長上に惹起させた、一連の厄介な事態であると言っていい。
 
これは、極めて高い確率で、「人生のやり直し」のチャンスを自ら摘み取っていく。
 
精神的に追い詰められ、不安と恐怖を隠し込んだこの悪循環の中で、「低自己統制尺度」(自己統制能力の欠如した行動傾向)が顕著な男は、いよいよ、厄介な事態を膨張させていく。
 
自業自得である。
 
一方、そんな男に目を付けられた青木もまた、その殺意の「本気度」を感受するが故に、「健一さんには幸せになって欲しいんだよ」(中村の見合い相手・川村への言葉)と言いながら、中村が起こすだろう事件を防ぐために、その川村を中村のキャッチボールの相手にさせるなど、下手な芝居を打ったりするのである。
 
一切は、普通の生活を望み、それを繋ぐ青木自身が、「平凡な日常性」を守ろうとする思いの延長上にある。
 
これも当然過ぎる感情である。
 
今、その川村が、中村のキャッチボールの相手となって、全く笑顔を見せない中村の投げるボールを受け止めていた。
 
中村にとって、亡妻との思い出の一つであるキャッチボールを、結婚の意思のない女との時間を繋いでも、亡妻の代わりにはなり得ないのだ。
 
そこに、中村が被弾した対象喪失の甚大さが読み取れる。
 
彼の思考にはもう、亡妻を殺した男への復讐以外に入り込む余地がないのである。
 
そして、亡妻を殺した男の行動を止められない青木は、木島の暴力の餌食となった。
 
その木島の暴力の餌食となったばかりの星と、木島を寄食させる小林も、この暴力にインボルブされ、相変わらず、木島との「腐れ縁」(小林の言葉)の関係を繋いでいる。
 
そんな二人の会話。
 
「昨日あいつにやられたこと、覚えているよね?じゃ、何で?」と小林。
「俺にもよく分らないんだけどさ。何かさ、俺、特に趣味とかないしさ、何かさ、一人はもうやだなぁと思って・・・」と星。
「だからって・・・これ、人殺しだよ?」
「じゃ、何で、君は、ここにいるの?」
「あいつには、俺が必要なんだよ」
 
重要な会話である。
 
星と小林の感情系に微妙な差異が窺えるという意味で、重要なのである。
 
単に、「孤独の埋め合わせ」というフラットな感情系で動く星に対して、小林の感情系は防衛的に構造化されているように見える。
 
それは、「自分が相手に依存していることを認めず、相手が自分に依存している」と考えることで、自我を安寧に導く防衛機制という心理学概念の説明の方が的を射ているということである。
 
しかし、「投影」という概念で説明可能なこの心理が根柢から揺らいでしまった時、退(の)っ引きならない行動が身体化される。
 
青木に対する過剰な暴力を行使する木島に対して、「あいつには、俺が必要なんだよ」と吐露した小林が暴力を振ったのだ。
 
それは、木島との「腐れ縁」によって延長されて来た、風景の見えにくい関係の澱みを相対化し得る行為であるように見える。
 
恐らく、轢き逃げ事件以前には、これ程までの「狂気」を露呈する暴力性を相応に抑制し得ていたが故に、「腐れ縁」の関係を延長することが可能だったが、事件と刑務所生活、そして、出所後、とりわけ、中村からの犯行予告以降、目立って膨張させている人格の破綻性を目視する中で、木島に対する小林の関係濃度が希薄になっていったと思われる。
 
木島との関係構造が急速に崩れ去っていくのだ。
 
小林の変容は、彼の内部で自己の相対化が加速的に進行している現象を意味するが故に、「あいつには、俺が必要なんだよ」と嘯(うそぶ)いた時、その言辞には「必要」と言わせるほどの情感が削り取られているのである。
 
その木島の「狂気」が、犯行予告の脅迫状の連射の中で心理的に追い詰められ、より一層、その心情を暴力によってしか表現できない男の、情報伝達能力の決定的欠如が剥き出しにされていく。
 
その現実を目の当たりにした小林の変容もまた、クリティカルポイントに達してしまったのである。
 
一切は、「日常性」から遊離した男たちの、「非日常」の脆弱な裸形の風景だった。
 
「俺は平凡でいたいんだよ!」
 
木島に暴力を振った時の小林の叫びである。
 
会社の仲間に言い触らした星の「自白」が、小林を守るための嘘であることが分ったのは、その直後だった。
 
小林自身が木島に語ったからである。
 
既に、そこには、極端に悪化していく木島の人格に寄り添えない小林の感情が垣間見える。
 
「何か、疲れちゃったよ」
 
いつものように、その殺意の在り処ですら脆弱な、一貫して継続力を持ち得ない木島の「悪」が露わになり、自分で穴に落とした青木の「処分」を小林に委ねて、星を随伴し、帰ってしまう男の心の風景には、所詮、この程度の覚悟しか持ち得ない小心なチンピラでしかないのだ。
 
その木島から青木の「処分」を委ねられた小林は、穴の中で蠢(うごめ)く青木から鋭利な言語を突き付けられた。
 
「平凡というのはね、全力で築き上げるもんだと思うんですよ」
 
明らかに、本作の基幹メッセージである。
 
その価値観を共有する青木を、小林が救い出した行為は当然の振れ方だった。
 
 

人生論的映画評論・続/
その夜の侍(‘12) 赤堀雅秋 <捩れ切って完結するグリーフワーク ―― その風景のくすんだ広がり>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/05/12.html