転々(‘07)  三木聡 <「不在」の父親と「非在」の息子が仮構した「疑似父子」の物語>

イメージ 11  「寄り道」のエピソードの中で心理的近接が深まっていくヒューマンコメディの情感濃度
 
 
 
「大学8年の秋、俺は3色の歯磨きを買えば、この最悪の状況から逃れられるような気がしていた」
 
法学部に所属する大学8年生の、竹村文哉(以下、文哉=ふみや)のこのナレーションから始まる映画は、いきなり文哉のアパートの乱雑な部屋に入って来た中年男から、口の中に靴下を突っ込まれるシーンで観る者を驚かす。
 
「どうだ、塩味か納豆味か。人に借りたものをな、返さないとこうなるんだよ!80万くらいの金、何ともなんないのか。体売るか!」
 
この中年男の名は福原愛一郎(以下、福原)。
 
両親に捨てられたという文哉に、84万の金を貸している男である。
 
3日間の猶予を与えられた文哉には為すべき何ものもなく、ゲームセンターで時間を潰すばかり。
 
「町で岸部一徳と会うといいことがあるって」
 
文哉がゲームセンターで耳にした言葉であるが、これがコント劇の集積のようなヒューマンコメディの伏線になっていくことは容易に読み取れる。
 
その文哉を尾行していた福原が、文哉の借金を返す方法を提示する。
 
「犯罪の匂いがするが、犯罪じゃない。100万ある。これをお前にやる。その代わり、俺に付き合え。東京散歩。東京の町を散歩する。俺が行きたいところへ行き、お前はそれに付き合う、それだけだ。一応、目的地は霞が関。期限はない。俺が満足いくまで歩く」
 
「犯罪の匂いがするが、犯罪じゃない」と言われても、あまりに美味し過ぎる話に、ダメ学生の文哉が躊躇するのは当然だった。
 
「何だか、とてつもなく嫌な感じがした。約束の時間を過ぎても、男は現れなかった。やはり、俺はからかわれたのか」
 
この文哉のナレーションの直後、待ち合わせ場所の井の頭公園現れた福原との、男同士の「東京散歩」が開かれる。
 
紅葉の東京の美しい風景のワンシーンを見せたあと、物理的距離を確保しながら、不安含みで歩く文哉の根っ子には、当然ながら、福原の目的が全く読めないことにある。
 
「話す場所は、もう決めてある。俺の話を聞くか聞かないかは、お前の判断に任せるが、聞いた以上は最後まで付き合ってもらうぞ」
 
動機を尋ねる文哉への、福原の反応である。
 
この時点での文哉の行動の選択肢は、福原の「東京散歩」に同行する以外になかった。
 
だから、嫌々ながらも、福原との物理的距離を確保しつつ、ただ単に、徒歩を繋いでいく。
 
しかし、初日から、文哉は福原の目的を知らされることになる。
 
「話す場所」に辿り着いたからである。
 
場所は調布飛行場
 
広々とした空間のスポットでの告白である。
 
「俺は人を殺して来た。女房だ。人間って、あんなに簡単に死ぬんだなぁ」
 
ここまで聞いて、福原の本気度を見せつけられた文哉との会話に、初めてシリアスな風景を映像提示する。
 
「どこで殺したんです?」
「自宅のマンションだ。かっときてぶん殴ったら、死んでしまった」
「だったら殺人じゃなくて、傷害致死ですよ」
「どっちだって同じだろ。問題は、俺が女房を殺してしまったということだ。だから分っただろ。俺が霞が関に行く訳が。正確に言うと、目的は桜田門の警視庁。自首するんだよ」
「自首するんなら、最寄りの警察に行けばいいじゃないですか」
「どうせなら、一番立派な警察にしたいじゃないか」
 
更に、歩きながら会話を続ける。
 
「俺達夫婦は、二人で東京の町を、目的もなくぶらぶらと歩くのが好きだった。老後はそうやって、余生を送ろうって話していたんだ」
「なぜ、僕を誘ったんですか?」
「一人じゃ、寂しいからかも分んないな」
 
ここで、岸部一徳を見つけるシーンがあるが、この伏線の回収は未だ不分明である。
 
死体が見つかる前に、刑が軽くなるから自首しろと勧める文哉に対して、「俺は刑が軽くなるから自首するんじゃない」と言い切る福原。
 
その福原が、八幡神社での参拝で、いつまでも合掌している姿を見て、その理由を尋ねる文哉に、「女房と初めてキスをした場所だ」と答えるのだ。
 
この辺りから、二人の距離は心理的に近接していく。
 
「原因は、奥さんの浮気ですか?」と文哉。
「まあな。あいつは俺がいない時、渋谷や新宿で若い男を漁ってたらしい」
 
今度は、文哉が自分の過去の一端を語っていく。
 
「俺、大学に入学した時、自分の持ってる写真、全部燃やしましたからね」
「卒業アルバムもか?」
「卒業アルバムもです」
 
両親に捨てられたと語る文哉にとって、「思い出」という名の過去は唾棄すべきものでしかなかった。
 
コスプレイベントで、小学校時代に、唯一、誕生会に呼んでくれた尚美と再会する小さなエピソードが挟まれるが、決して文哉の過去には心地良い「思い出」がなかった訳ではない事実を物語る。
 
この後、幾つかの小ネタの連射で、「寄り道」のエピソードが繋がっていく。
 
但し、この「寄り道」のエピソードの中で、福原と文哉の心理的近接が深まっていく現象が、大したことも起こらない物語にヒューマンコメディの情感濃度を高めていく。
 
2日目の夜に、福原と別行動した文哉が、約束の時間になっても福原が戻って来なかったので、本気になって新宿の町を探し回るのだ。
 
だから、突然現れた福原に腹を立て、初めて感情を剥(む)き出しにする文哉。
 
「まだ怒ってんのか、お前。よくそんなに長く怒ってられるよな」
「いや、何年かぶりに怒ったんで、収め方が分んないっていうか・・・」
 
明らかに、福原に対する甘えの感情が、そこに垣間見える。
 
このことは、文哉の乳幼児期に、普通のレベルの甘えが形成されていたことを意味するだろう。
 
親に捨てられたと言っても、その親か、またはその親に代わる大人に、少なくとも、ネグレクトされていなかった事実を検証すると言っていい。
 
そんな空気の後押しが、父子ほどの年の離れた文哉に対して、福原が夫婦関係の忘れがたい思い出を吐露していく。
 
「女房とさ、時々、日曜日の最終バスに乗ってさ・・・」
「なぜです?」
「寂しくなりたかったから。絶妙に寂しいんだよ。寂しいと、お互い愛おしく思ったりするだろ。俺たちは、好きっていう気持ちだけが頼りで、一緒に暮らしてたからさ。好きっていう気持ちはすり減るだろ。だからさ、お前みたいなのでもさ、息子がいれば、そんなことなかったんだろうけど・・・」
 
この「息子」という言葉が福原から放たれたことで、この二人の関係「疑似父子」のイメージ被(かぶ)さっていく。
 
一方、福原の妻が勤める職場では、3日経っても出勤してこないので、心配する3人の同僚たちが様子を見に訪ねていくが、そこに至るまでの3人によるコント仕立ての掛け合いの会話は絶妙だった。
 
あまりに自然過ぎる掛け合いに職場の風景の日常性が見事なまでに切り取られていて、本線とパラレルに展開する物語の生命線を維持ていた。



人生論的映画評論・続
転々(‘07)  三木聡 「不在」の父親と「非在」の息子が仮構した「疑似父子」の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/08/07.html