真珠の耳飾りの少女(‘03)   ピーター・ウェーバー  <心理的・身体的接触の快楽を観念の世界に昇華し切った名画の風景>

イメージ 11  「フェルメール・ブルー」の鮮烈な青の世界を全身の感性で理解する少女
 
 
 
「お前を働きに出すなんて・・・食べ物に気を付けてね。雇い主はカトリックよ。祈りの言葉が聞こえても、耳を塞いで」
 
職人の父が事故で失明したことで、貧しい家族の家計を支えるために奉公に出る娘に、言い聞かせる母のこの言葉から映像は開かれる。
 
時は1665年。
 
場所はオランダのデルフト。
 
見習い奉公に出る娘の名はグリート。
 
16歳である。
 
そのグリートの奉公先は、今では、「オランダ黄金時代の絵画」の代表的画家とされ、その生涯の大半をデルフトで過ごしながら、40歳代前半に家計が破産し、死去したとされるヨハネス・フェルメール(以下、フェルメール)。
 
到着早々、恐らく、「牛乳を注ぐ女」のモデルとなったであろう台所担当の貫禄ある召使い・タンネケから、グリートに与えられた仕事は、運河の水を使う洗濯、掃除、台所仕事、市場への買い出し等々、子沢山のフェルメール家の日常生活に関わる一切のもの。
 
但し、フェルメールが打ち込む、制作中のアトリエへの立ち入りは禁じられる。
 
そんなグリートが、フェルメール家でいきなり経験するのは、カトリック教徒であるフェルメール夫人・カタリーナ(以下、カタリーナ)の階級意識丸出しの冷たい態度だった。
 
6人の子供を持ち、現在妊娠中のそのカタリーナに促され、アトリエでの掃除のため、まだ見ぬ「天才画家」の部屋に入り、静かに窓を開け、外光を取り込む。
 
ここで、脚が止まった。
 
制作中の「真珠の首飾り」(「真珠の首飾りの女」とも言う)を視認したグリートの目は輝き、息を呑む。
 
そこに義母・マーリアが現れ、この絵はまだ「3カ月かかるわ」と言われるグリート。
 
それは、グリートが「フェルメールの絵画」と衝撃的な出会いをした瞬間だった。
 
しかし、多くの子供や使用人を抱え、破産の危機への不安を絶えず感じているカタリーナの不機嫌の原因の一つが、肝心の夫の絵画の完成が遅れているという事実が判然とする。
 
「奥様はカンカンだ。食器を投げ、旦那様の絵をズタズタに。旦那様は黙って耐えてるよ。その日以来、奥様はアトリエに入らないのさ」
 
タンネケから、グリートが直接聞くフェルメール家の事情である。
 
そして、7人目の子を産むカタリーナと、それを見守るフェルメールが、今、グリートの眼の前にいる。
 
ファン・ライフェン。
 
 
そのパトロンに、出産祝いを兼ねて、「真珠の首飾り」の完成祝いの招待状を届けるグリート。
 
ファン・ライフェンの部屋の左手には、半分ほど布に覆われた状態の「二人の紳士と女」が置かれ、他にも「牛乳を注ぐ女」やデルフトの風景画など、数多くのフェルメールの作品が集められている。
 
「お前の主人は、素晴らしい画家だ。デルフトで一番だ。私の肖像画も描いた。わが墓標になるだろう」
 
ファン・ライフェンの言葉である。
 
ファン・ライフェンの妻をモデルにした「真珠の首飾り」の絵を見たライフェンは、出産祝いの場で、この絵画の秀逸性を、「色彩と遠近法と幻想性」という一言で説明する。
 
そのライフェンから次の画題を聞かれたフェルメールは、「まだ決めていない」と答えるばかりだった。
 
そんな折、カタリーナからアトリエの掃除を任せられていたグリートが、「窓を拭いたら光が変わります」と申し出るエピソードがある。
 
このグリートの申し出に驚きの表情を隠せないカタリーナは、それでも窓拭きを命じた。
 
夫の芸術を理解し得ないし、特段の関心を見せないカタリーナにとって、このグリートの申し出は不意を突かれる思いだったのだろう。
 
そのグリートの窓拭きを後方から見ていたフェルメールは、それに気づくグリートの作業に、「そのまま」と言って、窓の傍でポーズを取らせるに至る。
 
この日はそれだけだったが、フェルメールの心に何某かのインスピレーションを与えたことが読み取れる。
 
程なくして、それが具現化する。
 
「カメラ・オブスクラ」が、フェルメールのアトリエに登場するのだ。
 
当時、ピンホール(針穴)カメラと同じ原理を有する、「カメラ・オブスクラ」はデッサンを描くために使用された光学装置で、これがカメラの起源になっていくが、フェルメールが「カメラ・オブスクラ」を使用し、「牛乳を注ぐ女」などの名画を描いてきた事実は、よく知られるところである。
 
そして、「真珠の耳飾りの少女」(「青いターバンの少女」とも言う)もまた、「カメラ・オブスクラ」を使用した名画の結晶点になっていくが、この時点で、未だフェルメールの視野に入っていない。
 
この「カメラ・オブスクラ」をグリートに覗かせ、そこに映るモデルの人形を見せるフェルメール
 
驚き、興奮するグリート。
 
「何が見えた?」とフェルメール
「絵です。でも・・・なぜ、絵が中に?」とグリート。
「レンズだ。向こうから、反射光が入ってくる。それで箱の中に絵が写るんだ」
「本物?」
「映像だ。光の絵だ」
「箱を覗いて描くの?」
「参考になる」
 
これだけの会話だったが、未知のゾーンに踏み込んだときの感動と興奮が、グリートの心を捉えてしまった。
 
しかし、フェルメールとグリートの物理的近接は、娘のコルネーリアの嫉妬の対象になっていく。
 
それでも、グリートの意識が、フェルメールの絵画の世界の虜(とりこ)になっていくのを妨げる何ものもなかった。
 
「水差しを持つ女」。
 
製作中のこの絵を凝視するグリート。
 
「色が合いません」
 
彼女はすっかり、一代の芸術家の作品世界の有能な観察者になっていくようだった。
 
「下塗りの色だ。深みが出る。光の中の影だ。乾いてからブルーを薄く塗ると、黒が透けて見える」
 
更に、窓を開け、空の雲の色をグリートに問うた時の彼女の反応は、フェルメールを刺激するのに充分だった。
 
「白です。いえ、白じゃない。黄色、ブルー、灰色。色が混じってます」
 
当時、理論化されていなかった「色の三原色」(赤・青・黄の三色)、「光(色光)の三原色」(赤・緑・青の三色)、「色の三属性」(色相・彩度・明度)や、「補色調和」(赤と青などの色の相乗効果)の原理は、ルネッサンスを経由し(ラファエロは赤・青・黄の三原色を使っている)、近・現代社会へと進むに連れ、光を色彩に変えた近代絵画の画期点において、色彩と配色が重要な表現の手段と化し、絵画の歴史を形成していくが、外光が反射して差し込み、そこで輝いて見える部分を限りなく白く、明度を上げた点描を特徴にする「ポワンティエ」と呼ばれる表現技法こそ、17世紀のオランダ黄金時代の画家・フェルメールの、光と質感に富んだ精密で写実的な風俗絵画の世界だった。
 
フェルメール・ブルー」の鮮烈な青の個性豊かな世界が、それを全身の感性で理解する少女との間に、その純粋なまでの表現フィールドを作り出しつつあったのだ。
 
かくて、妻に内緒で顔料の買い物を依頼したり、フェルメール絵画の精密な技法の初歩のレクチャーを受けたりする日々を繋いでいくグリート。
 
また、色を混ぜる仕事(絵の具の調合)をグリートに命じるフェルメール
 
そして、屋根裏部屋で寝るようになったグリートは、フェルメールの絵画の制作のアシスタントのような仕事を負い、それを淡々と遂行する少女がいる。
 
「水差しを持つ女」の下塗りが、少しずつ完成に向かっていくその名画を凝視し、堪能する少女が、今、そこにいるのだ。
 
因みに、私のフェルメールとの出会いは、窓枠に右手をかけ、テーブルの上の水差しを掴みながら、物思いに耽っている若い女性の風俗画、即ち、この「フェルメール・ブルー」全開の「水差しを持つ女」に言い知れぬほどの感銘を受けたことが嚆矢(こうし)だった。
 
寓意を含んだ絵画の一般的解釈(「虚栄」のメタファーの宝石箱と、「純潔」のメタファーの水差しとの内面的葛藤)については後(のち)に知ることになるが、「煩悶する女」というイメージが私の感性に刷り込んだ名画は、まさに「究極の風俗画」と言っていい何かだった。
 
この「煩悶する女」というイメージこそ、フェルメールとの出会いによって、子沢山の邸で働くグリートが被弾する嫉妬や悪意の対象になっていく、自らの煩悶(節制心をもって守られてきた「純潔」と、身分と年齢を超えた「異性愛」との葛藤)に心理的にトレースするものなのか。
 
8人目の子供を身ごもったカタリーナに、優しく労(ねぎら)うフェルメールを視界に収めたグリートの複雑な表情が映し出された後、働き始めてから付き合っている精肉店の若者・ピーターと愛情交換する少女もまた、そこにいる
 
まるでピーターが、フェルメールの代替の異性であるかのようだった。
 
そんな折に出来した、一つの看過し難い「事件」。
 
「べっ甲のクシ」がグリートに盗まれたと断定し、それを否定するグリートの言葉を無視し、「厄介な娘だわ」と捨て台詞を残して去っていくカタリーナ。
 
グリートを憎むコルネーリアの悪意が、一人、暴れていた。
 
「私は盗んでいません。助けて」
 
傍らにいるフェルメールへの助けを求めるグリートを救済するために、フェルメールは家の中を狂ったように家探しし、コルネーリアのベッドに隠されていた「べっ甲のクシ」を見つけ出すに至る。
 
かくて、義母のマーリアに鞭を打たれるコルネーリア。
 
「疫病神ね。仕事を怠けてコソコソうろついて」
 
コルネーリアの罪でありながら、グリートに向かって放たれるカタリーナの言葉には、理不尽なまでの毒気が含まれていた。
 
まもなく、この理不尽なまでの毒気が、物語の本線に甚大な影響を与えていくの
 
 
 
人生論的映画評論・続真珠の耳飾りの少女(‘03)   ピーター・ウェーバー
 心理的・身体的接触の快楽を観念の世界に昇華し切った名画の風景>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/09/03.html