ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(‘13)  ジャンフランコ・ロージ <光と色彩のシャワーによる摩訶不思議な世界の昼夜の光景の変容>

イメージ 11  固有の人生を人知れず繋ぐ人々の時間の断片を切り取る映像空間
 
 
 
「GRA環状高速道路はイタリアで最長を誇り、土星の輪のようにローマを取り囲んでいる」
 
冒頭のキャプションである。
 
サイレンを鳴らして走る救急車が患者を搬送するシーンから開かれるGRA(グランデ・ラッコルド・アヌラーレ)は、周囲約68kmの無料の環状高速道路で、ファシスト党政権下のムッソリーニによって建設が始められた「アウトストラーダ」という名で有名である。
 
土星の輪のようにローマを取り囲むGRAには、世界有数の大都市・ローマの眩(まばゆ)い輝きを放つ観光イメージと切れ、殺到する旅行者たちが出会うことのないイタリア人の様々な暮らしがある。
 
疾走していく車の洪水の激しい音声が聞こえるGRAに接する周辺の一角に羊牧場があり、そのエリアで、ヤシの植林から害虫の発生を防ぐために、樹の中の害虫の声を音波探知機で聞き取っていく植物学者。
 
自分の広大な土地を、映画撮影や宿泊施設などとして貸し付ける元貴族のオーナー。
 
撮影への貸し出しを許可し、当人の元貴族は、その撮影中にパソコンのカードゲームで愉悦した後、豪勢な部屋の浴槽で葉巻を燻(くゆ)らせている。
 
その後、元貴族は妻と一緒に華美な衣装をまとい、リトアニアからの訪問客を接待する
 
また、「あなた生む素晴らしさ」などと歌い、キャンピングカーで暮らしながら、自由を謳歌するゲイの街娼らの陽気な生活者。
 
それでも、警察への恨みを持ち、弁護士を雇うことなど、極めてリアルな会話を繋いでいる。
 
「本当にゴミみたいな人生だわ。金持ちばかり、いい思いをする世の中なんて」
 
そんな愚痴を吐きながら、一人のゲイの街娼は、色彩の芸術とも言えるような「マジックアワー」(日没後の薄明の時間帯)の中枢で、体を揺すりながら楽しそうに歌っている。
 
「もし、フランスからウナギを持って来たら?アメリカとアフリカのウナギを、この国の環境で養殖したらどうなる。そいつらが10個、病原体を持ってたら、生息環境の違いのせいで、200万個に増殖するさ。そして、それを全部ごちゃ混ぜにするわけだ。こいつらの調査をするなら、ロシアかアメリカでやればいいんだ。だが、ごちゃ混ぜはダメだ。養殖するなら、この国のウナギでしたらいい」
 
これは、イタリアで3番目に長く、ローマ市内を流れるテヴェレ川で、自国産のウナギ漁を本業にする漁師の愚痴である。
 
言葉を選びながらも、外国産ウナギの輸入に憤慨しているのだ。
 
その隣で、縫物をしながら、恐らく、日々聞かされているだろう夫の話を無視するウクライナ移民の老妻との対比が滑稽だった。
 
近くには、カメラを意識しつつ、笑みを浮かべている若者がいた。
 
更に、運河に転落した男性の体を救助して、凍死しないように必死に体を温めたり、横転事故の車から130キロほどのスピードで走行する若者を助け出す先の救急隊員。
 
「休むと給料をもらえない」
 
命が救われたそのドライバーの苦衷(くちゅう)の吐露である。
 
件の救急隊員は帰宅後、食事の支度をしながら、パソコンのデスクトップで二人の友人らとチャットをしている。
 
その雰囲気から独身らしい。
 
そして、いつものように実家(?/明らかに、物理的環境や会話などから自宅と異なる)に寄り、認知症と思しき母親の介護(画面から判断すれば在宅介護とは思えない)をする、この中年の救急隊員にとって、他者の生命を守り、搬送する仕事を延長させつつ、「この美しい肌。まるで王女様だ」などと優しく言葉をかけ、寄り添う日常性こそ、何より捨ててはならない人生なのか。
 
生々流転する人生をなぞっていくように、場面を目まぐるしく遷移させながら、GRAを円環的に囲繞し、恣意的に切り取った人々の暮らしの断片が次々に紹介されていく。
 
高層のアパートには、色々な人生が彩りを添えていた。
 
そのアパートの窓から世俗の光景を覗いて、世間話を繋ぐ男がいる。
 
イギリスの作家・ロレンス・ダレルの話題など、知的な会話まで娘と喋り続ける、好奇心旺盛な老紳士の言葉である。
 
「どこからでもサンピエトロ大聖堂が見える」
 
有名な観光スポット・バチカン市国の象徴のカットを映さない辺りに、この映画のメッセージが読み取れる。
 
それにしても、饒舌すぎる老人の世間話が1日中引っ切り無しに続き、まるで終わりがないようだった。
 
裏寂れた街の色彩の洪水の中で踊る風俗嬢たち。
 
彼女たちも、噂好きの饒舌を止めることはなかった。
 
一方、先の植物学者は、ヤシの害虫を手に持ち、極めて哲学的な語りを繋いでいる。
 
「組織化された社会構造を持つ。中には、卓越した能力を持つ者もおり、遠く離れた距離から獲物を嗅ぎつける。そこに仲間を呼び集めて、繁殖のために団結する。彼らは一斉に敵を攻撃し、卵を産みつけることで、その場を占拠する。なくなるまで、1つのヤシを食べ続ける。ヤシにとっては深刻であり、人間にとっては象徴的だ。ヤシは人間の魂の形をしているからだ」
 
自宅の書斎に戻り、害虫退治の研究を惜しまないこの植物学者のエピソードだけが、大都市・ローマを取り巻く高速道路の周囲に呼吸する人々と切れる静寂な空間を作り、何か深淵な雰囲気を醸し出しているようだった。
 
そんな摩訶不思議(まかふしぎ)な映像空間が、突然、究極のリアリズムの世界を映し出す。
 
引き取り手のない親類縁者のいない無縁仏の遺体が、共同墓所に移されていく風景のシーンである。
 
「生理的寿命」(人間の個体の限界寿命)の臨界点の中で、固有の人生を人知れず繋いできたであろう人たちの最終到達点の一つが、そこにあった。
 
その共同墓所に雪が降り積もっていくのだ。
 
渋滞する車に積もる雪が、この大都市に季節があることを、観る者に映像提示する。
 
ラストは、様々な色彩に彩られたローマ環状線をコラージュさせて閉じていく。
 
最後まで、不思議ワールドを切り取った映像宇宙は、紛れもなく、私たちホモ・サピエンスの裸形の相貌だった。
 
 
  
人生論的映画評論・続ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(‘13)  ジャンフランコ・ロージ <光と色彩のシャワーによる摩訶不思議な世界の昼夜の光景の変容>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/01/13_5.html