利休にたずねよ(‘13) 田中光敏<「政治の世界の天下人」と「芸術世界の天下人」 ―― 加速的に累加された矛盾の最終炸裂点>

イメージ 11  「ぬかづく人」に堕ちていく道を確信犯的に拒絶する男の物語
 
 
 
利休聚楽屋敷。
 
利休切腹の朝嵐だった。
 
茶人一人に、3000の兵を差し向けるとは・・・我が一生は一服の茶に己が全てを捧げ、ひたすら精進に励んできた。その果てが・・・天下を動かしているのは、武力と銭金だけではない
 
傍に寄り添う妻・宗恩に利休は吐露する。
 
秀吉にとって、利休の切腹を回避させる唯一の条件は、利休が後生大事にする「緑釉(りょくゆう)の香合(こうごう/小壺)」差し出すこと以外ではなかった。
 
「私がぬかづくのは,美しいものだけでございます」
 
これが、利休の確信的な答えだった。
 
これで、「天下人」による利休の切腹が決定づけられた。
 
「お尋ねしてもよろしいでしょうか?女人というものは、どうしようもない煩悩を抱えた生き物かと存じます。貴方様には、ずっと想い人が・・・」
 
この宗恩の意想外の問いに、一瞬、利休は若き日の出来事を想起するが、妻の問いに答えることなく映像は21年前の過去に遡及する。
 
信長が堺を直轄地としたときのこと。
 
信長が自分の支配下の茶頭(さどう)たちを集め、茶器の品評していたところに、時を計算し、あえて遅れてやって来た堺の宗易(利休の法名)が黒い硯箱すずりばこを見せ、裏返した硯箱の蓋に水を注ぐと、金箔きんぱくの絵に満月と鳥と波が映し出されのである。
 
その宗易の趣向に感嘆した信長が、全ての金貨を与えて去っていく。
 
それを傍で見ていた秀吉が硯箱を覗きこみ、驚きの表情を見せた。
 
これが、利休と秀吉との最初の出会いだった。
 
利休切腹12年前。
 
信長の茶頭として仕えていた利休は、独得の美意識によってアートの世界を作り出す。
 
「美は私が決めること。私の選んだ品に伝説が生まれます」
 
これは、利休が茶の席で信長に放った言葉。
 
「天才は天才を知る」という諺の通り、この言葉を受けた信長は笑みを湛(たた)えながら、「こ奴、余程の大悪人よ。天下を狙う奴が、わしの回りでまた増えた」と言ってのけるのだ。
 
しかし、この「大悪人」の言葉を耳にした秀吉には、未だ、利休の器量の大きさに圧倒されていた。
 
利休切腹10年前。
 
今や信長の筆頭家臣となった秀吉が、信長の怒りを買った不安を抱え込み、利休茶室を訪ねて来た。
 
利休から粥と梅干しを膳に出され、それをガツガツと掻き込み、「子供の頃を思い出しました」と言って、嗚咽含みで、貧しい少年時代のことを語るのである。
 
「静かな御心でおいでなさいませ」
 
これが、秀吉の心理を読み切った利休の助言だった。
 
茶室の壁には、「閑」という一字が書かれた掛け軸が、秀吉心を捉えていた。
 
「お取成し、私からも、してみますゆえ」
 
この利休の一言で嗚咽し、頭を下げる秀吉がそこにいた。
 
「本気の涙よ。人たらしをたらしこむとは」
 
茶室の外で待機していた、秀吉の側近・石田三成の言葉である
 
このエピソードで信長の茶頭である利休の政治力が判然とする。
 
ムクゲが咲くと我が夫・利休は、いつも、その姿が見えなくってしまうのです」
 
これは宗恩のモノローグだが、この伏線は後半に回収される。
 
利休切腹9年前。
 
この年(1582年)、本能寺で自害した信長に代わり、秀吉と柴田勝家の対立は日増しに激しくなり、両陣営の戦(いくさ)は回避できなくなっていた。
 
秀吉が「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)において勝家を破り、「天下人」となったのは、その翌年だった。
 
因みに、茶室の原型で、数寄屋造り(すきやづくり/虚飾をを排した簡潔さを特徴とする和風住宅)の原型とされる利休の茶室・「待庵」たいあんが作られたのも、秀吉明智光秀の軍勢を撃破した「山崎の戦い中国大返しの時期に当たる。
 
二畳の茶席で、全体の広さが四畳半大という、狭小な「小宇宙」である「待庵」こそ、高さ66cmの出入り口=躙(にじ)り口を有する、利休の侘茶(わびちゃ)の美学の達成点でもあった。
 
思うに、その身を屈めて、茶室という侘び数寄を本旨とする「小宇宙」に這い入る動作の中に、既に「世俗的な冠」の全てが完全に解体されてしまうのである。   
 
まさに、不便なる「躙り口」とは、たとえ武士と言えども刀は排除され、非武装化されざるを得ない特別のスポットなのである。
 
そこは、世俗と超俗の絶対的な境界線なのだ。   
 
世俗を捨てた向こうの「小宇宙」には、何かしらの「不足」がある。
 
その、何かしらの「不足」(「不完全の美」)を受容することで「何ものにも囚われない自由な心」=「精神世界の真の豊かさ」に辿り着く。
 
これが、「待庵」の「小宇宙」に収斂される究極の侘茶=「侘び」の思想の集約ではないのか。
 
私は、そう思う。
 
物語を進める。
 
利休切腹6年前。
 
念願の「関白」(天皇に代わって政務を執る者で、秀吉が武家の棟梁・「征夷大将軍」にならなかったのは家系的な問題だったか否か、今でも不分明)の地位を得た秀吉は、豪奢(ごうしゃ)な日々に明け暮れていた。
 
その秀吉に仕えることになった宗易が宮中参内のために、居士号「利休」を正親町天皇(おおぎまちてんのう/織豊政権下で皇室の権威を堅持)から勅賜(ちょくし)されたのは、この年の10月である。
 
いよいよ、侘茶の完成へと向かっていく利休。
 
「人を殺してもなお、手にしたいだけの美しさがございます」
 
「命がけか」とまで、秀吉に言わせた侘茶の真髄を吐露する利休の精神世界に、たとえ、「関白」の地位を得た者にも入り込めない絶対的乖離感がある。
 
その秀吉が、利休の緑釉の香合」に関心を持ち、それを手に入れたいと考えたのはこの時だった。
 
緑釉の香合」が女人(にょにん)との関係で、利休が大切にしているものであることを、既に秀吉は見抜いていた。
 
一方、利休の侘茶の美学に惹かれて、多くの大名が利休の門人になっていく風潮に、クレバーな石田三成は危機感を抱いていた
 
「利休が大きな力を持つ前に、潰しておかねば」
 
助言を無視する秀吉には、未だ、利休への殺意など生まれようがなかった。
 
朝鮮侵略への野望に象徴されるように欲望の膨張が止まらない秀吉には、独自のアートを極める利休の存在は、自らの支配下にあって、「ぬかづく人」であると信じ切っているのだ。
 
しかし、朝鮮侵略に異を唱える辺りから、「ぬかづく人」であるはずの利休への秀吉の視線が険しくなっていく。
 
利休切腹4年前。
 
京都北野天満宮境内において、秀吉主催の大規模な「北野大茶湯」(きたのだいさのえ)が開かれた年である。
 
それは、「型破りで天衣無縫」(山上宗二の言葉)な利休の芸術性の深まりと、益々、対極性を帯びていく。
 
利休の高弟である山上宗二(やまのうえそうじ)が茶会の場で秀吉を激怒させ、命乞いする利休を無視し、その場で惨殺される事件が出来する。
 
利休切腹の年。
 
大徳寺の楼門の二階に、利休の木像が設置された一件が起こる。
 
「股の下を潜れということかな。追って沙汰を下す」
 
配下の武士を引き連れた三成が、臨済宗大徳寺住持(住職)・古渓宗陳(こけいそうちん)を恫喝する。
 
そして、利休の娘・おさんを側室と望んだ秀吉の無理難題を、拒絶する利休。
 
嫁ぎ先が決まっていたおさんが、縊首(いしゅ)したのは、その直後だった。(因みに、今東光の小説・「お吟さま」では、おさん=お吟の自死の背景に、キリシタン大名高山右近との恋愛問題が絡んでいたが、無論、創作である)
 
娘を喪った利休は、蟄居(ちっきょ)を命じられるに至る。
 
秀吉の支配下にあって、「ぬかづく人」である現実を検証させるかの如く、一方的に窮地に追い込まれているように見える利休だが、「ぬかづく人」に堕ちていく道を確信犯的に拒絶する意志を曲げないのだ。
 

人生論的映画評論・続
利休にたずねよ(‘13) 田中光敏<「政治の世界の天下人」と「芸術世界の天下人」 ―― 加速的に累加された矛盾の最終炸裂点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/02/13.html