1 「ぬかづく茶人」に堕ちていく道を確信犯的に拒絶する男の物語
利休聚楽屋敷。
利休切腹の朝は嵐だった。
「茶人一人に、3000の兵を差し向けるとは・・・我が一生は一服の茶に己が全てを捧げ、ひたすら精進に励んできた。その果てが・・・天下を動かしているのは、武力と銭金だけではない」
傍に寄り添う妻・宗恩に、利休は吐露する。
秀吉にとって、利休の切腹を回避させる唯一の条件は、利休が後生大事にする「緑釉(りょくゆう)の香合(こうごう/小壺)」を差し出すこと以外ではなかった。
「私がぬかづくのは,美しいものだけでございます」
これが、利休の確信的な答えだった。
これで、「天下人」による利休の切腹が決定づけられた。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか?女人というものは、どうしようもない煩悩を抱えた生き物かと存じます。貴方様には、ずっと想い人が・・・」
この宗恩の意想外の問いに、一瞬、利休は若き日の出来事を想起するが、妻の問いに答えることなく、映像は21年前の過去に遡及する。
信長が堺を直轄地としたときのこと。
信長が自分の支配下の茶頭(さどう)たちを集め、茶器の品評していたところに、時を計算し、あえて遅れてやって来た堺の宗易(利休の法名)が黒い硯箱(すずりばこ)を見せ、裏返した硯箱の蓋に水を注ぐと、金箔(きんぱく)の絵に満月と鳥と波が映し出されたのである。
その宗易の趣向に感嘆した信長が、全ての金貨を与えて去っていく。
それを傍で見ていた秀吉が硯箱を覗きこみ、驚きの表情を見せた。
これが、利休と秀吉との最初の出会いだった。
利休切腹12年前。
信長の茶頭として仕えていた利休は、独得の美意識によってアートの世界を作り出す。
「美は私が決めること。私の選んだ品に伝説が生まれます」
これは、利休が茶の席で信長に放った言葉。
「天才は天才を知る」という諺の通り、この言葉を受けた信長は笑みを湛(たた)えながら、「こ奴、余程の大悪人よ。天下を狙う奴が、わしの回りでまた増えた」と言ってのけるのだ。
しかし、この「大悪人」の言葉を耳にした秀吉には、未だ、利休の器量の大きさに圧倒されていた。
利休切腹10年前。
今や信長の筆頭家臣となった秀吉が、信長の怒りを買った不安を抱え込み、利休の茶室を訪ねて来た。
利休から粥と梅干しを膳に出され、それをガツガツと掻き込み、「子供の頃を思い出しました」と言って、嗚咽含みで、貧しい少年時代のことを語るのである。
「静かな御心でおいでなさいませ」
これが、秀吉の心理を読み切った利休の助言だった。
茶室の壁には、「閑」という一字が書かれた掛け軸が、秀吉の心を捉えていた。
「お取成し、私からも、してみますゆえ」
この利休の一言で嗚咽し、頭を下げる秀吉がそこにいた。
「本気の涙よ。人たらしをたらしこむとは」
茶室の外で待機していた、秀吉の側近・石田三成の言葉である。
このエピソードで、信長の茶頭である利休の政治力が判然とする。
「ムクゲが咲くと我が夫・利休は、いつも、その姿が見えなくなってしまうのです」
これは宗恩のモノローグだが、この伏線は後半に回収される。
利休切腹9年前。
この年(1582年)、本能寺で自害した信長に代わり、秀吉と柴田勝家の対立は日増しに激しくなり、両陣営の戦(いくさ)は回避できなくなっていた。
秀吉が「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)において勝家を破り、「天下人」となったのは、その翌年だった。
因みに、茶室の原型で、数寄屋造り(すきやづくり/虚飾をを排した簡潔さを特徴とする和風住宅)の原型とされる利休の茶室・「待庵」(たいあん)が作られたのも、秀吉が明智光秀の軍勢を撃破した「山崎の戦い」(中国大返し)の時期に当たる。
二畳の茶席で、全体の広さが四畳半大という、狭小な「小宇宙」である「待庵」こそ、高さ66cmの出入り口=躙(にじ)り口を有する、利休の侘茶(わびちゃ)の美学の達成点でもあった。
思うに、その身を屈めて、茶室という侘び数寄を本旨とする「小宇宙」に這い入る動作の中に、既に「世俗的な冠」の全てが完全に解体されてしまうのである。
まさに、不便なる「躙り口」とは、たとえ武士と言えども刀は排除され、非武装化されざるを得ない特別のスポットなのである。
そこは、世俗と超俗の絶対的な境界線なのだ。
世俗を捨てた向こうの「小宇宙」には、何かしらの「不足」がある。
その、何かしらの「不足」(「不完全の美」)を受容することで、「何ものにも囚われない自由な心」=「精神世界の真の豊かさ」に辿り着く。
これが、「待庵」の「小宇宙」に収斂される究極の侘茶=「侘び」の思想の集約点ではないのか。
私は、そう思う。
物語を進める。
利休切腹6年前。
いよいよ、侘茶の完成へと向かっていく利休。
「人を殺してもなお、手にしたいだけの美しさがございます」
「命がけか」とまで、秀吉に言わせた侘茶の真髄を吐露する利休の精神世界に、たとえ、「関白」の地位を得た者にも入り込めない絶対的乖離感がある。
その秀吉が、利休の「緑釉の香合」に関心を持ち、それを手に入れたいと考えたのはこの時だった。
「緑釉の香合」が女人(にょにん)との関係で、利休が大切にしているものであることを、既に秀吉は見抜いていた。
一方、利休の侘茶の美学に惹かれて、多くの大名が利休の門人になっていく風潮に、クレバーな石田三成は危機感を抱いていた。
「利休が大きな力を持つ前に、潰しておかねば」
助言を無視する秀吉には、未だ、利休への殺意など生まれようがなかった。
しかし、朝鮮侵略に異を唱える辺りから、「ぬかづく茶人」であるはずの利休への秀吉の視線が険しくなっていく。
利休切腹4年前。
それは、「型破りで天衣無縫」(山上宗二の言葉)な利休の芸術性の深まりと、益々、対極性を帯びていく。
利休の高弟である山上宗二(やまのうえそうじ)が茶会の場で秀吉を激怒させ、命乞いする利休を無視し、その場で惨殺される事件が出来する。
利休切腹の年。
大徳寺の楼門の二階に、利休の木像が設置された一件が起こる。
「股の下を潜れということかな。追って沙汰を下す」
そして、利休の娘・おさんを側室と望んだ秀吉の無理難題を、拒絶する利休。
嫁ぎ先が決まっていたおさんが、縊首(いしゅ)したのは、その直後だった。(因みに、今東光の小説・「お吟さま」では、おさん=お吟の自死の背景に、キリシタン大名・高山右近との恋愛問題が絡んでいたが、無論、創作である)
娘を喪った利休は、蟄居(ちっきょ)を命じられるに至る。
秀吉の支配下にあって、「ぬかづく茶人」である現実を検証させるかの如く、一方的に窮地に追い込まれているように見える利休だが、「ぬかづく茶人」に堕ちていく道を確信犯的に拒絶する意志を曲げないのだ。