その男、凶暴につき(‘89) 北野武 <「野生合理性」という感情システムを内蔵する男の「約束された収束点」>

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1  血染めの赤に塗り潰された、重くて、救いようのない瞑闇の風景の中で
 
 
 
 
既成の映画文法の押し付けを拒絶し、好き放題に撮った映画の面白さ。
 
それが、この映画に凝縮されている。
 
北野作品群の中で、「娯楽」と割り切って作ったこの映画が、私は一番好きだ。 
 
恐らく、「ソナチネ」(1993年製作)で完成形に達する、北野武流バイオレンス映像のルーツが、この「その男、凶暴につき」という際立って特異な映画の中に、其処彼処(そこかしこ)に詰め込まれている印象が強いからである。


私には、この「其処彼処」という辺りが気に入っているのである。 

 
致命的瑕疵(かし)に陥りやすい危うさの際(きわ)を突き抜けて、好き放題に撮り捲(まく)った映画の魅力こそ、この映画の生命線であると思うからだ。 
 
―― 以下、梗概と批評。 
 
「ホームレス狩り」で暴れ捲る、非行少年グループのリーダー格の少年を殴り倒した一件(後述)の翌日、港南署刑事課に勤務するその男は、新任したばかりの吉成署長から呼び出しを受け、現場を目撃しながら、現行犯逮捕しなかったことで注意を受ける。 
 
「うまくやってくれ」と吉成署長から言われても、殆ど聞く耳を持たないその男の名は、我妻諒介(以下、我妻=あずま)。 
 
その日、精神病棟から退院した妹の灯(あかり)を迎えに行き、地元の祭りや海を見学した後、言葉少なに帰っていく我妻の表情は、まるで別人のような優しさを見せていた。 
 
新任の刑事・菊池と高級パブに誘われたのは、その夜だった。 
 
その直後の映像に、儲けを求める覚醒剤の売人・柄本を殺した清弘(きよひろ)が登場するが、まもなく、我妻の「最強の敵」と化すシーンの伏線となっていく。 
 
菊池を随行し、柄本殺人事件の現場に立ち会った我妻が、知り合いの刑事から1万円を借り、その金で自宅アパートに戻るが、そこで、退院してまもない灯が男を連れ込んでいる現場を視認したことで、男を送っていくという口実をつけて、抑制的な暴行に及ぶのだ。 
 
「妹、もらってくれんだろうな」 
 
相手にそのつもりがないのを知っていながら、曖昧な返答する男を恫喝する我妻。 
 
そして、殺人事件で浮かび上がった男を逮捕するために向かう刑事たちの一行の中に、当然、我妻もいた。 
 
しかし、金属バット以外の武器を持たない相手の男の激しい抵抗に、次々に倒されていく刑事たちの中で、怒涛の憤怒を抱く我妻の暴力は炸裂する。 
 
菊池の制止も聞かず、同乗していたパトカーで男を二度も轢(ひ)き、更に、その男に暴行を加え続ける我妻。 
 
この追跡シーンを長々と描き出すことで、捕まったら刑務所行きを覚悟しなければならないヤクザの拘束が、尋常ではない現実を描き出すリアリティは圧巻だった。 
 
この追跡シーンが突出して面白いのは、犯人を追走する我妻が、相手のペースについて行けずに、疲弊し、歩き始め、結局、菊池が運転するパトカーに同乗したり、或いは、拘束すべき被疑者にメンチ切るや、その被疑者に裸足で蹴られ捲(まく)ってKOされた刑事たちが、顔の傷を絵柄に出しながらも、何食わぬ顔して、再び追走劇の戦力に復元していったり等々、人間同士の格闘を極めてリアルに描き切ったところにある。 
 
この面白さは、今まで私たちが散々見せられてきた、「格好いいスーパーマン刑事ドラマ」における綺麗事満載のステレオタイプの描写を、完璧に破壊し切った一点にあると言っていい。 
 
しかも、その即物的な描写が自然で、類型的パターンの破壊を意図的に狙ったあざとさを感じさせないので、観る者を一気に惹きつける訴求力に満ちていた。 
 
物語を続ける。 
 
柄本の死から覚醒剤のルートを探っていく我妻は、売人・橋爪を恫喝することで、あろうことか、このルートに友人である防犯課長の岩城(いわき)が絡んでいることを知り、苦境に陥る。
その岩城の縊首(いしゅ)の死体が川の欄干で発見され、自殺と見せかけた殺人であることを確信する我妻は、必死に覚醒剤のルートを調べ上げていく。 
 
その間、岩城のことを我妻にバラした橋爪が、清弘に殺害されるに至る。 
 
しかし、この橋爪殺しを、覚醒剤の元締めである仁藤(にとう)から叱責される清弘もまた、その単独行動に不信を抱く仁藤にとって、いずれ消さねばならない一介のヤクザでしかなかった。 
 
当然、岩城を殺したのも、この仁藤の指示による清弘の犯行だった。 
 
橋爪と共に覚醒剤を売っていた酒井が、清弘の脅威に晒されていた現場を確認した我妻は、その酒井から、清弘の存在と、その背後にいる仁藤という男の名を聞かされ、自分が追い詰めていく敵の影が判然とする。 
 
早速、行動に移す我妻。 
 
「レストランを経営しながら、裏で覚醒剤と人殺しか」 
 
仁藤に対面したときの、我妻の第一声である。 
 
港南署刑事課に連行した清弘に覚醒剤所持の容疑で逮捕し、殴る蹴るの暴行を繰り返す我妻。 
 
そこには、岩城殺しへの憎悪が煮え滾(たぎ)っていた。 
 
「兄弟揃って、キチガイか」 
 
血に塗(まみ)れた清弘が放った、タブーの差別言辞である。 
 
清弘への憎悪が瞬時に殺意に変換され、矢も楯もたまらず、発砲する我妻。 
 
仲間の刑事たちに取り押さえられたことで、我妻の発砲事件は署内で隠蔽されるが、でっち上げの別件逮捕、監禁、拷問等々の無法な我妻の行動によって、吉成署長から辞表の提出を求められる。 
 
このシーンでの長い「間」は、北野作品を貫流する「沈黙の中の心理戦争」を的確に表現していて、とてもいい。 
 
翌日、「沈黙の中の心理戦争」に勝ったとは言え、免職処分を余儀なくされた我妻は、為すべき何ものもなく、街を彷徨する。
 
 ここから、日付をまたいで、ほぼ24時間の、血染めの赤に塗り潰された、救いようのない狂気の世界が開かれていくのだ。 
 
既に釈放されていた清弘から、後ろから、ナイフで腹部を刺される我妻。 
 
そのナイフを左手で握り締め、凄惨な格闘になるが、清弘が放った銃丸で、たまたま居合わせた女性が犠牲となった。
 
その間、逃げる我妻が一息ついた暗い路地の一角の前に立ち塞がったのは、執拗に我妻を追って来た清弘。 
 
顔面に拳銃を突きつけられた我妻は、左手から抜き取っていたナイフで清弘に刺し返し、再び逃走する。 
 
一方、清弘の手下らによって拉致された灯は、犯された挙句、ドラッグ漬けにされていた。 
 
刑事時代から、曰く付きの見知りの店で、拳銃を手に入れた我妻が向かった先は、仁藤の事務所だった。 
 
その仁藤の弁明を聞くまもなく、我妻の銃丸は仁藤を撃ち抜いていた。 
 
我妻は今、最も憎むべき清弘のアジトへと向かっていく。
 
あろうことか、「これから殺し合いになる」と言い放った、清弘の命令に恐れをなした手下から肩を撃たれ、立ち上がれない清弘の前に、今度は我妻が立ち塞がるのだ。 
 
自ら銃丸を乱射されながらも、清弘に銃丸を連射し、完全に息の根を止めた。
 
 「クスリ…クスリ…」 
 
妹・灯の声が、我妻の耳に侵入してくる。 
 
我妻の銃丸が灯に向かって放たれたのは、既に死体となった清弘に、「クスリ」を求めてしがみつく、灯の惨めな姿を呆然と見つめ続けた直後だった。 
 
今や、誰も救える者がいない状況下にあって、我妻には、この究極の選択肢しか持ち得なかったのだろう。 
 
幾分、ベタな印象を拭えないが、このシーンによって、この映画は、凡俗のサスペンス・アクション・バイオレンス映画を突き抜けてしまったと言える。 
 
全てを破壊し、守るべき者まで喪わせるに至った男に、もう、心地よき未来などない。 
 
未来がないその男が、後方からの銃丸で絶命したのは、物語の必然的な収束点だった。 


「どいつも、こいつもキチガイだ」 

 
男を殺した新開が終焉させた物語は、救いようのない瞑闇(めいあん)の風景の中で、仁藤の後釜になるのもまた、狂気の世界を巧みに擦り抜けた、クレバーな極道の約束された着地点だったのだろう。 
 
血染めの赤に塗り潰された、重くて、救いようのない時間が終焉した瞬間である。 
 
ラストシーン。 
 
「岩城の代わり、できるのかね?」
「僕はバカじゃないですから」  
 
前者は仁藤の後釜に座った新開の言葉で、後者は、「半人前」とバカにされていた菊池刑事の言葉。 
 
菊池の「人格変容」の設定には些か違和感を覚えるが、今や、新開が仕切るビル内の社長室を去っていく菊池を、社長秘書の女性が怪訝(けげん)そうに一瞥するラストカットは見事だった。 
 
一般市民の視線に収斂させることで、グロテスクな暴力が飛び交った物語の総体を客観化しているからである。
 
 

人生論的映画評論・続その男、凶暴につき(‘89) 北野武 <「野生合理性」という感情システムを内蔵する男の「約束された収束点」> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/05/89.html