父 パードレ・パドローネ(‘77)  タヴィアーニ兄弟<仮想敵の「権限的縄張り」を突き抜けた青春の奇跡的飛翔の目映さ>


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1  複雑な父子の葛藤を描き切った物語

 
 
 
 
 
「彼はガビーノ・レッダ。35歳。読み書きできなかったが、今では言語学者で、人気作家だ。この映画は、彼の自伝を基に作られた。物語は、サルデーニャの小学校から始まる。ガビーノは1年生だ。ある11月の朝、役場の一角にある教室に、父親が突然やって来た」
 
映画の原作者・ガビーノ・レッダが登場して開かれる語りは、「羊の世話と番をさせるんだ。息子はわしのもんだ」と言って、ガビーノの父親・エフィジオが1年生になったばかりの息子を、教室から強引に連れ出すシーンに繋がっていく。
 
「乳を売りに町に出る間、羊をほってはおけん。乳や作物を売った金で、服や生活に必要な物がようやく買える。今も羊は置き去りだ。山賊が盗むかも知れん。ガビーノが守る」
 
エフィジオの一方的な言い分に対して、女性教諭は反対するが、エフィジオは頑として受け付けない。
 
「羊飼いは羽がなくても、空を飛ぶ。小学校の卒業は、大人になってからでいい。他の子供たちを飢え死にさせろと言うのか。義務教育がなんだ!教育より、貧乏の方がよほど切実だ」
 
これで、ガビーノの将来が決定づけられていく。
 
映画の舞台は、地中海の異境と言われるイタリアの特別自治州の島・サルデーニャ島
 
「集中するんだ。昼は目を、夜は耳を使え。森や野原を、隅々まで知り尽くせ。一人で残るんだ。方角や時間の感覚を身につけろ。自分や羊の位置を知れ。木の葉の音を聞け。音を聞き分けるんだ。目を閉じろ。耳をよく澄ませ。目印となるカシの木だ。顔を向けろ。今度は、森の向こうを流れる川の音だ。すべて覚えろ」
 
かくて、父はガビーノに、自然の感覚を身につけるための重要なアドバイスを送り、未だ6歳の子供に対して、徹底的な訓練を施していく。
 
誰もいない山の番小屋から逃げようとするガビーノに、体罰を加える父。
 
逃げようとしても逃げられない状況下で、羊の世話をするガビーノ。
 
思春期になったガビーノは、澎湃(ほうはい)する性的欲求を満たすために、羊に抱きつき、自慰行為に耽る日々を繋いでいた。
 
山に登ってきた父親が、ガビーノより年上の少年が獣姦する現場を目視し、慌てて帰宅し、妻との交接を結んでいく。
 
これは、このような状況に置かれた男たちの、ごく普通の自然な生理的現象であって、それ以外ではなかった。
 
そんな孤独の日々を突破したガビーノの内側で変化が起こったのは、彼が20歳になったときだった。
 
殆ど、他人と口を聞いたことがないガビーノは、山岳地帯を通りかかった若者の弾くアコーディオンの音色に魅せられて、二匹の羊と、そのアコーディオンを交換したのである。
 
それは、自分の知らない新鮮な文化との出会いだった。
 
以来、父の目を盗み、アコーディオンの練習を続けるガビーノ。
 
「息子が離れていく。もう、年なのか。どうやって、引き止めればいい?それとも。自分が信じてきたほど、利口ではないのか?」(エフィジオのモノローグ)
 
ある日、一人の羊飼い・セバスティアーノが敵対している家族に殺された一件で、そのセバスティアーノの妻から、エフィジオがオリーブ畑を買い取るというエピソードが挿入されることによって、エフィジオ家の風景が一変していく。
 
初めて地主になった喜びで、「豊かな暮らしができるぞ」と言い放つエフィジオ。
 
ところが、需給バランスが取れていたオリーブ油の市場が、EUの合意によって関税が撤廃され、極端に安価になり、「豊かな暮らし」というエフィジオの思惑が外れてしまうが、エフィジオの決断で、一部の土地とヤギを残して、全財産を処分した。
 
「新たな人生だ。利率10%で銀行に預ける。7年後には。資産は倍になるだろう。その金を身近な者に貸し付けるんだ」
 
これが、羊牧で生業(なりわい)を立てていた男の、「新たな人生」の内実だった。
 
しかし、この一件によって、外国に移住する若者たちの思いが沸騰する。
 
ガビーノもまた、その一人だった。
 
「軍に入って、ラジオ技師になれ。約束通り、小学校を卒業させる。勉強はわしが教える」
 
算数の計算どころか、字も読めないガビーノが、今、この時点から、小学校の勉強をするのは、殆ど不可能であると言ってよかった。
 
かくて、父の命令通り、ガビーノはイタリアの軍隊に入るが、サルデーニャ語を話す彼の言葉が全く通じない現実を知らされ、途方に暮れるばかりだった。
 
文字を知らないそんなガビーノに、軍隊で知り合った友人のチェーザレが辞書を与え、イタリア語を丁寧に教えていく。
 
ガビーノの猛烈な学習意欲が一気に加速し、一つ一つ、イタリア語をマスターしていくのだ。
 
ラジオの組み立てに成功し、合格するに至る。
 
「初めて、父さんに手紙を書きます。中学を卒業しました。父さんが子羊と呼ぶ人間にも、学問は必要です。重大な決心をしたので、お知らせします。僕は立派な軍人にも、ラジオ技師にもなりません。軍に残って、高校の卒業資格を取ったら、サルデーニャに戻って、大学で勉強します」
 
父に書いた手紙である。
 
この手紙によって判然とするように、ガビーノは、これほどの文章を書けるようになったのである。
 
しかし、彼の学習意欲は更に過熱し、父の頑健な反対を押し切る意思を持って、軍を除隊する。
 
案の定、「帰って来るな」という父の手紙が届けられる。
 
それでも、ガビーノは帰村する。
 
「何が言語学だ。言葉で惑わす気か。甘い顔はせんぞ。働かなければ食わせない。わしの興味は、お前が手足を使って作る作物だけだ」
 
再会した時の、父の独り言である。
 
父の頑固な性格を嫌というほど知り尽くしているガビーノは、父に言われなくても、雨の日でも、「手足を使って作る作物」を得るために、父との共同作業に没我する。
 
「発音の違いを研究したい」
 
共に働きながらも、サルデーニャ方言の研究に打ち込もうとする長男の、決して挫かれることのない強靭な意志は延長されていた。
 
数か月間、羊飼いの労働で疲弊し切ったガビーノは、大学への入学試験の勉強に費やしたいからと言って、父に休みの時間を求めるが、それを拒絶する父。
 
そして、「試験に落ちたよ」と正直に話すガビーノ。
 
だから、「6月の試験に集中する」と言い切ったのである。
 
「命令するな。わしが主人であり、父親だ」
「主人なもんか!血のつながりなど興味ない。今まで助けてくれたのは、血のつながらない他人ばかりだ。一晩かけて、言うことを考えた。全部、ぶちまけてやる。父親は人生で2つのことをする。まず従い、次に命令する。貯めた金で体を作り、命令の肺を服従の空気で満たす」
息子にここまで言われ、「家に帰って、息子を殺す」と独言したエフィジオは、ガビーノに「出て行け!」と言い放つや、格闘になり、父を制圧する息子がそこにいた。
 
口笛を吹き、父親の挑発に乗り、その父を平手打ちする息子はもう、完全に自立的な成人にまで立ち上げていたのである。
 
だから、父と子の格闘は不可避だった。
 
それは、どうしても突破しなければならない通過儀礼だったのだ。
 
強がって見せたが、自分の部屋で意気消沈するエフィジオ。
 
本土に帰ろうとするガビーノがエフィジオの目の前に来たとき、ガビーノは父の膝に顔を埋めるのだ。
 
その息子の頭を父は撫でようとするが、父の手は、そこで拳となって振り上げられる。
 
しかし、何もできない。
 
もう、そんな気力すら残っていないのだ。
 
この複雑な父子の葛藤を描くシーンは、本作の白眉である。
 
ラストシーン。
 
サルデーニャ方言の研究で学位を取った。教職に就いたが、病気になり、胃の手術をして回復した。父への恥を忍んで、故郷のシリゴに戻った。自伝を書くためだ。その話が基になり、この映画ができた。私の自伝ではあるが、島の羊飼いたちは、彼らの人生そのものだと言う。だから私は、この島で本を書く。それが作家としての使命だ。
 
だが、時には逃げ出したくてたまらなくなる。この島や、この広場から。今は、賑やかだが、冬が来たら耐え難い。本土には、ここにはない楽しみがある。だが私が、そこで得た権力を父のように振りかざせば、父に負けることになる。つまり島に残るのは、身勝手な打算と恐怖からなのだ。故郷や仲間、汗の匂いから離れたら、また話せなくなる。少年時代、小屋で過ごした頃のように、再び殻に閉じこもってしまうだろう。
 
私の書いた物語は、これに似た建物で始まる。その日、父が私を学校から引き剥がした」
 
原作者・ガビーノ・レッダの語りによって、複雑な父子の葛藤を描き切った名画が、冒頭のシーンに戻されて、円環的に括られていくのだ。
 
 
 
人生論的映画評論・続/父 パードレ・パドローネ(‘77)  タヴィアーニ兄弟<仮想敵の「権限的縄張り」を突き抜けた青春の奇跡的飛翔の目映さ> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/06/77.html