アリスのままで(’14) リチャード・グラツァー <「約束された喪失感」のみが加速されていく恐怖と闘い、なお保持されている機能をフル活用し、尊厳を守っていく>





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「アリス。私はあなたよ。大事な話があるの。あなたが質問に答えられなくなったら、『蝶』というフォルダを開くこと」


 


 


「僕の人生を通じて、最も美しく、最も聡明な女性に」


 
コロンビア大学ニューヨーク市 マンハッタン)で教鞭を執り、世界中でも指折りの言語学教授・アリス・ハウランド(以下、アリス)が50歳の誕生日に、医師である夫・ジョンから受けた最高級の賛辞である。


 
3人の成人した子供(法科大卒の長女・アナ、医学生の長男・トム、女優志望の次女・リディア)を持つアリスが、突然の異変が襲われたのは、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)での講演中だった。


 
途中で、スピーチする語彙(ごい)を思い出せなかったのである。


 
その直後、アリスは、ロスの劇団に所属する次女・リディアと会い、未だ成功が覚束ない彼女にアドバイスするが、一言で一蹴される。


 
「私は自分の人生を生きているの」


 
きっぱりと、自分の意志を表現するリディアの性格が表れていた。


 
アリスが大学のキャンパスを、ジョギング中に迷ってしまったのは、そんな折りだった。


 
認知症の中核症状である、人・場所・時間が分らない「見当識障害」の一端が、もう、そこに現出していた。


 
不安を感じたアリスは、専門家に相談するが、充実な日々を過ごしていると信じる彼女には、この時点で、更年期障害を疑っているレベルだった。


 
母と姉を事故死で喪い、アルコール依存症が原因の肝不全で、父を喪っているアリスが、神経科の専門医・ベンジャミンに相談した理由は、青年期における家族の不幸を目の当たりにしているからだった。


 
しかし、認知症の簡易な知能検査として日本で用いられている、「長谷川式認知症スケール」と同質の検査で、記憶の復唱に頓挫したことで、MRIの検査を受けることになったアリス。


 
MRIの検査の結果は正常で、脳血管の疾患や卒中の痕跡もないという事実を知らされ、心の底から安堵する。


 
それでも専門家には、記憶の復誦に頓挫した一件が気になり、「近時記憶障害」(最近覚えた記憶の障害)と判断し、記憶機能の低下を指摘した。


 
かくて、PET検査(ペットけんさ/癌・認知症パーキンソン病統合失調症などの診断に用いられる)が要請されるに至る。


 
若年性アルツハイマー病との関連が疑われたからである。


 
神経科の専門医のこの一言に不安を持ったアリスは夫に相談するが、取り立てて心配しない夫・ジョンに、「怖いの」と告白する。


 
「物忘れをする年のせいだ」とジョン。

「そういうのじゃない。抜け落ちるの」


ここまで話しても真剣に取り合わないジョンに、突然、激怒するアリスだが、既に、このような行為の中に、彼女が罹患した疾病の症状が顕在化していていた。


 
「人生を捧げて来たことが、何もかも消える!」


 
激怒の直後の号泣を、この夜、ジョンはしっかり受け止めた。


 
かくて、夫婦で神経科を訪れる。


 
若年性アルツハイマー病と断定され、それが家族性アルツハイマー病の指標になるから、遺伝子の変異を調べるという結論になった。


 
そのために、家族成員の遺伝子を調べる必要があり、それを自分の子供たちに説明するに至る。


 
衝撃を受ける子供たち。


 
そして、授業に立つアリス。


 

しかし、授業の内容を忘れてしまって、アリスは学生たちに聞く始末だった。


 
学生たちも、授業に身が入らないようだった。


 
の上、悪いことが重なる。


 
長男・トムは陰性、次女・リディアは検査を拒否するが、長女・アナが陽性反応という結果が出て、アリスは「ごめんなさい」と謝るばかりだった。


 
「次の人工授精の前に分って良かった。心配しないで」


 


アナは、不妊治療中だったので、人工授精を受ける予定だったのである。


 
しかし、大学の授業で学生たちから不満が募り、それを指摘する教授に、アリスは正直に自分の疾病を告白する。


 

まもなく、自分が近未来に入所する予定の施設を見学するアリス。


 
そして、アリスは、自分が自分であることを確認するために、パソコンに向かって、現在、自分の持ち得る能力を駆使し、自らに語りかけていくのだ。


 
自ら質問し、自ら答えていく。


 
「アリス。私はあなたよ。大事な話があるの。あなたが質問に答えられなくなったら、次の段階に進むべき時よ。間違いないわ。寝室にランプの載った棚がある。一番上の引き出しに、錠剤の入ったビンがある。“水で全部飲め”と書いてある…質問に一つでも答えられなくなったら、『蝶』というフォルダを開くこと」


 


自らの左手首には、「記憶障害患者」というプレートのついたブレスレットが嵌められている。


 
アリスは優しい夫に支えられ、海に行ったり、昔話を語り合ったりして、「非日常の日常」の時間を愉悦するのだ。


 


  


2  「私はまだ生きています。私は苦しんでいるのではありません。闘っているのです。瞬間を生きること。それが私のできる全て」


 


  


アリスの症状は確実に悪化していく。


 


夫と共に過ごすためにやって来た別荘で、トイレの場所が分らず、失禁してしまう。


 

嗚咽を抑えられず、若年性アルツハイマー病の一方的攻勢に立ち往生するばかり。


 
そんなアリスの抑鬱状態を少しでも緩和する役割を負ったのは、相変わらず演劇に打ち込むリディアだった


 


演劇の学位を取ることを勧める母に対し、「私がやりたいのは演劇よ。自分を信じて挑戦したい」と答える娘にとって、アリスの存在は、常に自分の身の振り方を考えてくれる、ごく普通の母親以外の何ものでもなかったのである。


 
だから、いつでも気楽に話し合えるのだ。


 

「私が私でなくなる前に、安心させて」

「ママ。私を思い通りにするために、今の状況を利用しないで」
「当り前よ!私は母親だもの」


そう言いながら、リディアの演劇の戯曲を読み、その感動を本人に伝えるのである。


 


しかし、演劇の戯曲を読んだつもりだったが、アリスが読んだのはリディアの日記だった。


 
リディアに責められるアリス。


 

本気で怒り、本気で母を非難するリディアの存在は、未だ、母娘関係が継続していることの証となっていた。


 


しかし、人工授精で双子を身ごもりながらも、陽性反応の一件で、アナとの関係が希薄になっていくのは必至だった。


 


それまで、二人で続けていた「単語ゲーム」が、「時間がなかったの」と言うアナからの柔和な拒絶反応によって中断するに至る。


 




人生論的映画評論・続/アリスのままで(’14) リチャード・グラツァー <「約束された喪失感」のみが加速されていく恐怖と闘い、なお保持されている機能をフル活用し、尊厳を守っていく>  )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/10/14.html